「誰もが同じことをするのが平等」との信念が、厳密な校則や部活動の強制などのブラック校則を生み出す

最初に、今回の記事は心理に関する専門的な内容というよりも、私自身が子供の頃より学校に対して抱いていた疑問や、その後知り得た学校教育の様々な実情について、腑に落ちる出来事に遭遇したというものです。
ですから、いつも以上に推測に頼る部分が多くなっていることをお断り致します。

教育現場に存在する「誰もが同じことをするのが平等」との信念

先週のNHKEテレ「ハートネットTV」で「困った!どうする?障害学生のキャンパスライフ」と題して、当事者の方の様々な経験談が放送されていました。
番組の中で特に私の関心を引いたのは、誰もが同じことをするのが平等との強い信念を有する教師のために随分と苦労させられた話でした。

障害への無理解のことよりも「誰もが同じことをするのが平等」という考えの方がより気になったのは、私にとっての平等のイメージが、例えば憲法上の平等、つまり誰に対しても等しく権利が与えられるというようなものであり、間違っても行為の統制に結びつくようなものではなかったためです。

「誰もが同じことをするのが平等」との信念から生じる学校現場の不可解なルール

そしてこのような平等に対する考え方が教育現場に存在するのならば、次に述べるようなルールが学校に存在するのも当然のように思えました。

校則による服装などの厳密な規定

多くの学校には校則による服装などの規定が存在します。
その根拠として「服装の乱れは素行の乱れに結びつく」などの理由が挙げられているようですが、もしその心配からだけのことなら、厳密な規定までは必要ないはずです。
しかし実際には制服の着用を義務付けるだけでなく、その制服の各部分の寸法までが厳密に規定されています。

ここまで厳密に規定する必要があるとすれば、それは「誰もが同じことをするのが平等」との信念を頑なに推し進めるためなのではないかと私には思えます。

部活動の強制

続いてこれは私が通っていた学校には存在しなかったため驚いたことですが、部活動への参加を強制する学校が少なからず存在するようです。
文部科学省の高等学校学習指導要領(平成元年3月)によれば、部活動は第3章で規定されている特別活動に該当し、その特別活動の趣旨は次のように定められています。

「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り、集団の一員としてよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てるとともに、人間としての在り方生き方についての自覚を深め、自己を生かす能力を養う。」

部活動を強制する根拠として、この趣旨に記載されているようなメリットがあることなどが理由として挙げられているようですが、仮にどれほどメリットが見込まれるとしても、それを嫌がっている人に対して強制するような態度は、学校外の社会では押しつけとみなされ、そのような態度を取り続ける人は、本人の意思ではどうにもならない特段の事情がない限りは一般常識を欠いたコミュニケーション能力に問題を抱えた人物との評価を受けることになるでしょう。

また文科省の学習指導要領でも、部活動その他の特別活動は、強制されるべきものではなく、むしろ自主性を育むものであることが謳われています。

しかしそのような非常識かつ学習指導要領の理念にも反するルールが一部の教育現場においてまかり通っているだとすれば、そこにはやはり「誰もが同じことをするのが平等」との信念が浸透しているからではないかと考えられます。

なお今回は話題となっている部活動を取り上げましたが、前述のリンク先の文科省の「特別活動」の含まれるその他の行事についても、その多くが半ば強制されているように思えますが、その意図もこれまでの考察と同様に、全体主義へと繋がるような平等の解釈が根底にあるように思えます。

次回のこのテーマの記事では、この全体主義へと繋がりかねない平等の解釈に基づく教育が、生徒の人生にもたらす深刻な悪影響について、私なりに考察してみたいと考えています。

ですがその前に次のページでは、もし今回の仮説が妥当なものだとすれば、同じブラックでもブラック校則とブラック企業では、それを作り出している当事者の心理が大きく異なる点について触れる予定です。

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