自己愛の病的なイメージは、愛を「好き」に置き換えると一変する〜自己愛講座45

今回の自己愛講座は、もっと早く投稿すべきだったと後悔している事柄です。
自己愛=病理的な心理というイメージは、タイトルにもありますように愛を対象愛とみなしていることから生じているに過ぎず、その愛という言葉を好きという言葉に置き換えると印象が一変するということを示したいと思います。

「自己愛」につきまとう病的なイメージ

愛という概念ないし感情は、恋愛感情であれ家族愛であれ、それは他人や自分以外の対象へと向けられるのが一般的と考えられています。
このため自分を愛することを意味する自己愛という概念ないし感情には、どうしても病的なイメージが付きまといがちです。
自惚れ、独りよがり、自己中心的などが、その典型的なイメージでしょうか。

フロイトも「自己愛」を心理的に未熟な状態とみなしていた

また自己愛へのネガティヴなイメージは、心理療法家の間でも当初は同じようなものでした。
例えば精神分析の創始者のフロイトも、愛の形を「自体愛」「自己愛」「対象愛」の3つに分類し、対象愛のみを健全とし、それ以外の愛の形を病的で未熟なものとしました。

ちなみに対象愛とは、自分以外の誰かや何かに対する愛情、つまり一般的に愛情と考えられているものを指し、自体愛とは自分の身体の一部に対する愛情のことを指します。

自分の体を愛するとは奇妙に思えるかもしれませんが、フロイトは乳幼児が自分の身体の特定の部位や排泄物などに強い関心を示す様を、原初的な愛情の形と考えたようです。
そのため、その原初的な愛情の矛先が、成長するにしたがい先ずは自分の心に向かい(自己愛)、最終的には対象愛へと成熟していくと想定しました。
この意味で自己愛は、対象愛には至らない未熟な心のあり方とみなされました。

「愛」を「好き」に変えると、自己愛のイメージは一変する

以上のように、一般的なイメージにおいても臨床心理の世界でも、愛という概念は対象愛を基準として考えられ、それゆえその基準にそぐわない自己愛には病的なレッテルが貼られてきました。
ところがこの愛を、同じような意味で使われている好きという言葉に置き換えて自己愛について改めて考えてみると、驚くべきことに評価が一変してしまいます。

例えば目の前に、自分のことが好きな人と、自分のことが少しも好きになれない、あるいは大嫌いな人がいたとして、果たしてどちらの人の方がより健全に思えるでしょうか。
恐らく後者と感じた人が多いのではないかと予想されます。

自分に対する「好き嫌い」は、性格や外見などへの評価を意味している

このような結果になったのも「好き」という愛情と同じように使われている言葉も、それが自分自身に対して使われるときには、性格や外見などへの評価を意味しているためです。

つまり自分に対する「好き嫌い」の感情は、自尊感情と密接に関係している、いえそのベースとなっているとさえ言えます。
このため自分のことが少しも好きになれない、あるいは大嫌いな人に対しては、自尊感情が非常に低い人との連想が働き、これが健全とは言い難い印象を与えたのだと考えられます。
それに対して、自分のことが好きと思える人に対しては、その自尊感情が満たされた健全な人との印象です。

自己評価は高ければ高いほど良いというわけではなく、適度なものでなければならない

もっとも自分のことを好きであればあるほど健全なのかと言えば、そうでもありません。
例えば自分のあらゆる点が好きで改善の余地など1つもないと思っている人がいたとしたら、その人に対してどのような印象を抱くでしょうか。
恐らくそれは、自己愛の病的なイメージの典型例である自惚れのような印象ではないでしょうか。

このように自己評価というものは高ければ高いほど良いというわけではなく、それは適度なものでなければならないことが分かります。

次回の自己愛講座では、今回考察しましたように、愛に変わる「好き」という観点から、これまでの自己愛講座の内容と一部重複致しますが、より包括的な視点から自己愛性パーソナリティの人の特徴を見ていく予定です。

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