データジャーナリズムが普及しても視聴者のメディアリテラシーは依然として重要

昨晩放送されたNHK BS1「メディアの明日」の第3回「デジタル・ジャーナリズム最前線」、非常に興味深い内容でした。
なかでもデータジャーナリズムと呼ばれる報道スタイルが目に留まりました。

データジャーナリズムとは?

従来の報道ではジャーナリストが自らの専門知識やスキルなどを駆使して、「ジャーナリズムの視点」と呼ばれる、自らの価値観をある程度反映させた内容を伝えるスタイルをとっていました。

それに対してデータジャーナリズムでは、ジャーナリスト個人の能力に頼るのではなく、データを駆使して報道内容に客観性を持たせることを意図しています。
例として政府が「貧困と犯罪との間に明確な関連はない」との見解を発表したことに対して、犯罪者の居住地と住民の所得分布とのデータを突き合わせて両者には相関関係があることを示した海外の報道が紹介されていました。
このことをゲストの藤代裕之さんは「物語からデータによる説得へ」と表現されていました。

データジャーナリズムをもってしても「純粋に客観的な報道」というものは存在しない

しかしデータジャーナリズムをもってしても、一切の主観を排した「純粋に客観的な報道」が可能となる訳ではありません。
その理由はデータそのものに恣意性はないとしても、データを扱う人間の恣意性がどんなに工夫しても分析結果に必ず反映されてしまうためです。

現代物理学の研究者が明らかにしたのは、実験者の存在が必ず実験結果に影響を与えてしまい、しかもそのプロセスを正確に解明することは不可能なため影響を排除することは不可能、つまりどのような方法を用いても原因不明な事象によって純粋に客観的な実験結果を得ることはできず、その実験結果には必ず実験者の何かが反映されてしまうということでした。

この現代物理学の話を持ち出すまでのなく、上述の海外の報道の例もジャーナリストが政府の見解に「個人的に」疑問を持ったことがその出発点となっており、そこには明らかにそのジャーナリストの個人的な思考が影響を与えています。

このように報道のプロセス全体からジャーナリスト個人の影響を完全に排除することは不可能ですから、「データを元にしているから真実」と信じることはむしろ危険と言えます。
もう一人のゲストの茂木健一郎さんも「データの暴走(一人歩き)」を危惧されていました。

データジャーナリズムが普及しても視聴者のメディアリテラシーは依然として重要

以上のようにデータジャーナリズムをもってしても「純粋に客観的な報道」というものは存在しないのですから、これまでどおり視聴者のメディアリテラシー(報道内容を批判的に検討する能力)は依然として重要になると思われます。

むしろ藤代さんが「物語」と表現した、ジャーナリストの主観による編集の手が入り「見解」が明らかにされた報道に変わって、これからは(本当はそうではないのですが)事実のみを提示する報道が増えて来る可能性があるのですから、視聴者自身がその報道内容を解釈する力が必要となってくる、つまりより主体性を要求されるようになってくるのではないでしょうか。
(茂木健一郎さんもそのことを指摘されていました)

参考文献

フリッチョフ・カプラ著『タオ自然学―現代物理学の先端から「東洋の世紀」がはじまる』
上述の現代物理学の知見について分かりやすく書かれています。
知的好奇心を刺激されるような、とても面白い本です。

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