子どもに伝えるべきは「罪を憎んで人を憎まず」の精神ではないでしょうか

生徒に対してイスラム国による後藤さん殺害の動画を見せたことが問題に

今、栃木県の中学校で教師が生徒にイスラム国による後藤さんの殺害や死体の動画を見せた件がニュースで話題となっています。
教師が授業で「殺害動画」~「許せない気持ち感じてほしかった」FNN

報道の中で教師の動機「『イスラム国』に対する許せない気持ちを、生徒にも感じてほしかった」と、批判を受けた後の「その手段として、画像を見せたのは間違いだったし、反省している」とのコメントが紹介されていました。

この中で特に気になったのは「その手段として、画像を見せたのは間違いだった」の部分です。
これは恐らく「『イスラム国』に対する許せない気持ちを感じて欲しいということに関しては問題はなかったが、その手段が問題だった」との認識からなされたものと思われます。
ですが本当にそれで良いでしょうか。

人間には感情的になった時に、行為と行為者とを同一視してしまう傾向がある

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。
これは文字通り、非難されるべきはあくまで行為の方であって、その行為を行った人自身ではないという意味です。
つまり当たり前の話ですが、行為と行為者とは同じではないということです。

しかしこの当たり前のことも、私たちは強い怒りを感じた時には忘れてしまい、無意識に行為と行為者とを同一視し、その結果その行為がその人のすべてを表しているかのような錯覚を起こすため、良い面がまったくない極悪人のように思えてきます。
そしてこうなってしまっては相手が悪い部分しかない悪魔のような存在なのですから、本来働くべき罪悪感が希薄になり、怒りに駆られた報復行為などが正当化され、その結果無慈悲な行為が何ら罪の意識を感じることなく行われるようになってしまう可能性があります。

私見ですが「罪を憎んで人を憎まず」という教えは、人間のこのような傾向を鑑み、それを諭したものではないかと思われます。

子どもに伝えるべきは「罪を憎んで人を憎まず」の精神

この「罪を憎んで人を憎まず」の教えに照らしてみますと、冒頭の教師の「『イスラム国』に対する許せない気持ちを、生徒にも感じてほしかった」との思いは、行為ではなく行為者に怒りを向けることを願ってのこととなります。

このことに関して同校の校長は保護者説明会の席で「残虐性、非人間的な部分に対して、怒りを覚えてもらいたいとか、憤りを感じてもらいたいとか、こんなふうなことはやっちゃいけないことなんだというふうなことを訴えかけたかったんだと思っています」とコメントしたとのことです。
栃木の中学校で生徒に「イスラム国」動画 緊急の保護者説明会

もしそうだとしたら、そのことをもっとはっきりと分かるように伝えねばなりません。
なぜなら繰り返しになりますが、人間には感情的になった時に、行為と行為者とを同一視してしまう傾向があるためです。
これも私見ですが、こうした錯覚が相手を許す気持ちを奪い、復讐の連鎖を生み出してしまうのではないかと思われます。

ですからもしイスラム国のことを題材に授業を行うのでしたら、生徒に対して「どんなに酷いことをしても許されないのは行為の方であり、行為と行為者とは違う」ということを伝えるべきではなかったのでしょうか。
個人的には動画を見せたこと以上に、こちらのことの方が気になりました。

罪を償うとは「行為」の責任を取るということ

最後に前回の投稿「安倍首相のイスラム国への弱みを見せない毅然とした態度は、人道支援に限定されるかぎりにおいては適切」の安倍首相の「罪を償わせる」というコメントとの関連について書かせていただきます。

私は法律の専門家ではありませんのでこれは私見ですが、罪を償うとは自らの行為が及ぼした結果に対して責任を取るということだと思います。
したがって「罪を憎んで人を憎まず」と「罪を償わせる」とは矛盾しません。
行為が及ぼした結果に対してはしっかりと責任を取ってもらう。しかしその人自身を恨んだりはしない。

とても難しいことですが、そうしないとすぐに行為と行為者とが同一視され、そうして怒りに駆られた報復行為などが正当化され、復讐の連鎖が起きてしまうにように思えてなりません。

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