要約:多様性の思想では、互いに違いを認め合うことの重要性が強調されるが、『文化人類学の思考法』でも指摘されているように、その違い自体が先人達によって意図的に作られたものに過ぎないものであることから、差別や偏見を減らすためにはその認識の方がより重要と考えられる。
今『文化人類学の思考法』という本を読んでいますが、同書の序論に少し前から考えていたことが掲載されていましたので引用致します。
差異は、はじめからそこに「ある」ものではなく、自分たちとそうではない者たちの区別をつくりだす相互作用のなかで「つくられる」(P.5)。
補足) なお今回の考察対象の差異(違い)とは、人種などの人間の属性に関することなど、少なからず自尊感情に影響を与える区別を指しています。
多様性の思想だけでは差別や偏見をなくす効果は不十分
この引用文を読んで、多様性のことが思い出されました。
多様性とはDiversityの訳語で、今や様々な場面で引き合いに出される概念あるいは思想です。
この多様性の思想の下では、差別や偏見をなくすことなどを目的として、互いに違いを認め合うことの重要性が強調されるのが常です。
ですがその思想のほとんどが、違いをはじめから存在する客観的な要素として受け入れ、その上でその違いに寛容になることを求めているように思えます。
しかし実際は引用文にあるように、違い(差異)とは概念である以上、過去に誰かによって作られ、なおかつその区別の仕方が多くの人に支持された結果、これまで共有されてきたものに過ぎません。
この認識がなぜ重要かと言えば、これも引用文にあるように、区別することで自分たち(同胞)
と、そうではない者たち(よそ者)という対立構造を半ば必然的に作り出してしまうためです。
さらにこのことが何を意味しているかと言えば、普段私たちは集団の間で何か揉め事が生じて対立関係に陥ると、その原因を敵対関係にある集団の中に求めがちですが、実際は区別した時点で既に目に見えない対立構造が生じていて、そのため些細なことでその対立が顕在化しているに過ぎない、つまり対立の根本的な原因はそもそも区別したこと自体にあるかもしれないと言うことです。
こうした文化人類学の知見が心の底から実感できれば、意図的に作られたものに過ぎない違いを絶対視することもなくなり、その結果寛容になるための努力さえ必要なくなるかもしれません。
なぜなら違いが本質的なものではないとして価値が相対化されることで、そこに特別な意味が付与されなくなる可能性があるためです。
2ページ目では、差異の非本質性について、さらに考察してみたいと思います。
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