『文化人類学の思考法』

多様性の違いを認め合うだけでは差別や偏見はなくせない。差異自体が意図的に作られたものであることも認識すべき

1ページ目では多様性の概念で志向される「差異を認め合う」ことについて、文化人類学の知見を援用しながら、その差異自体が普遍的なものではなく、人間によって作られたものであることを示しました。

そこで2ページ目では、さらに差異というものが絶対的な価値を持つものではなく、むしろ文脈によって変化する相対的なものに過ぎないことを、人種を例に私なりに考察してみたいと思います。

人種の定義

Wikipediaによると、人種とは「現生人類を骨格・皮膚・毛髪などの形質的特徴によって区分したもの」と定義されます。
そしてこの人種という概念に基づき、ある者は連帯し、別のある者は敵対関係に陥ったりすることが歴史上繰り返されて来ました。

容易に区別できるとは限らない人種の違い

前述のように人種とは形質的特徴によって区分されるわけですから、その区別は誰にとっても容易なように思えますが、実情は決してそうではないようです。

例えば、かつてヒトラーに率いられたナチスドイツは、アーリア人至上主義の思想の元、ユダヤ人を大量虐殺しましたが、私には両人種の違いが見た目からはほとんど判別できません。
その一方で私にはある程度判別可能な中国や韓国の人々との外見的な違いが、西洋の人々には認識しづらいと聞きます。

このように人種とは、誰もが容易に判別できるものではなく、このことだけとっても絶対視できるものではないように思えます。

私説:人種の判別は漠然とした知識+経験により培われたもの

加えて人種とは、形質的特徴に関する知識さえ習得できれば、誰でも判別可能なほどの明確な差異を有しているのかと言えば、この点についても疑問が残ります。
なぜなら私自身、自分と中国や韓国の人々との外見的な違いを明確に述べることができないためです。
これはつまり漠然とした判別基準を元に差異を認識していることになります。

また私自身、人種の判別基準について親や学校から教わった記憶がなく、また自分から興味を持って調べた記憶もないことを考えると、人種の違いとは社会生活を営む中で漠然とした判別知識を吸収し、その曖昧な知識を無自覚に活用し続けることで徐々に培われていくものではないかと考えられます。

そしてその曖昧な感覚に基づく差異を、絶対的な価値を有するものと錯覚することで、幾度となく悲劇が繰り返されて来たのではないかと推測されます。

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