体罰には需要がある(受け手側の主体性の欠如の問題でもある)

名門バレー部の体罰問題を扱ったドキュメンタリー番組

先日、フジテレビのザ・ノンフィクション「そこに愛はあるのか?八王子実践高校・菊間崇祠監督」を見ていて改めて感じたことがあります。
それは体罰には需要があるのではないかということです。

番組ではバレー部の菊間監督の指導方法が体罰に当たるとして批判を受けていることを報じると共に、生徒がその厳し過ぎる指導を望み、また卒業生が「あれがなかったら自分はダメになっていた。今の自分はなかった」と述べるなど、周囲の批判とは裏腹に多くの生徒からむしろ慕われている様子が紹介されていました。

そしてこの放送に対して視聴者から「体罰を肯定・助長するかのような番組をなぜ放送するのか」旨の抗議のメッセージも届いているようです。
ですが私の考えは冒頭で述べましたように、助長以前に体罰には需要があるというものです。

体罰レベルの厳しい指導を受けないとやる気が起きない生徒の存在

その理由は上述の八王子実践高校のバレー部の生徒と同じような発言がクローズアップ現代「”体罰”なぜ繰り返されるのか」などでも紹介されていましたし、また運動部所属に限らずその他の学生からも「厳しくされないと甘えが出て怠けてしまう」「常にプレッシャーや危機感を感じて自分を追い込まないとやる気が起きない」旨の話をよく聞くためです。

これらが嫌でもやらなければいけないと感じているようなことでしたら理解できます。そのような場合やる気が起きなくてむしろ当然でしょうから。

問題なのは今回のバレー部員のように、嫌々ではなく本人が興味を持ち自ら望んで行っていることが想定できるようなことに対してもなお、やる気を喚起するために外部からの圧力を必要としていることです。
これが体罰には需要があると考える最大の理由です。

体罰は受け手側の主体性の欠如の問題でもある

ですから体罰は加害者を罰すればそれで解決するような問題ではなく、そのような指導者を望み自分ではやる気を喚起できない主体性の乏しい生徒の側に変化が生じなければ、厳しい指導者を失い途方に暮れる人が増えるだけになってしまいかねません。

具体的には主体性を応援するような養育環境や教育の実践や、その結果生じることが予想される「出る杭は打たれる」が如く主体的な振る舞いが非難や攻撃の的となるような社会の変化が必要と思われます。
(後者には羨望の問題が潜んでいます)

最後に「主体性の欠如」の問題は、恐怖政治などと呼ばれる独裁体制の温床にもなると考えられます。
また同じく主体性の欠如は、自己愛講座でたびたび触れて来ました抑うつ型の自己愛性パーソナリティ構造を持つ方の特徴でもあります。

ザ・ノンフィクション「そこに愛はあるのか?八王子実践高校・菊間崇祠監督」動画ページ

追伸)このように主体性の欠如を批判する私自身も、今あることで同じ問題に直面しています。
それは内容としては自己分析になりますので、近く自己分析のブログの方に掲載する予定です。

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