『愛の、がっこう。』の愛実の心理に見られる、教師という社会的役割への固着とスプリッティング

今回の記事は久しぶりに、ドラマの主人公の心理分析です。

『愛の、がっこう。』第4話からの心理分析

フジテレビ『愛の、がっこう。』、今楽しみにしているドラマの一つですが、7月31日放送の第4話で印象的なシーンがありました。

一つはホストのカヲルとたびたび会っていることを止めるように忠告する親友の百々子に対して、愛実が「保護者面はやめて」と腹を立てるシーン。
もう一つはラストで、カヲルが「終わりにしたい」と愛実に別れを告げて去っていくシーン。

先生という社会的役割への固着

これらのシーンを見ているうちに、以前に出席したあるセミナー後の会食の記憶が蘇りました。
その食事の席で私は何か失敗をしてしまったのですが、そのとき同席していた人から、(正確な言い回しは忘れてしまいましたが)まるで小さな子供を叱るときのような非難のされ方をして不快感を感じました。また周囲の人も驚いて顔を見合わせていました。

この私を叱った知人の仕事は幼稚園の教諭か保育士でしたので、失敗した私のことを(頭では大人と理解していても)情緒的には普段仕事で接している入学前の幼児のように感じていて、それで思わず仕事のときと同じような反応をしてしまったのでしょう*。

*もっともこの点については、私も他人のことを言えた義理ではなく、ときどき自分が詳しいと思っていることについて解説者気取りで知人に話して不快にさせてしまうことがあります。
このようなときの私は、おそらくクライエントに専門家として解釈を伝えているような気分に陥っているのだと思います。

この知人や私のエピソードは社会的役割への固着と考えられますが、この現象はどの職業でも等しく生じるわけではなく、仕事の人間関係の中で上下関係が生じやすく、なおかつその関係の中で上位の立場にある人に生じやすいようです。

スプリッティングの心理状態がリアルに表現

少々私の経験談の解説が長くなってしまいましたが、話を『愛の、がっこう。』に戻します。

主人公の愛実も、教師という普段生徒だけでなく保護者からも「先生」と呼ばれる職業に就いています。
だからでしょうか、カヲルに漢字を教えているときの愛実の態度が、どこか小さな子供を相手にしているように思えてなりませんでした。

しかしその愛実も、親友の百々子との間では、なぜか立場が逆転してしまい、そのため冒頭で紹介したように「保護者面はやめて」と腹を立てています。

この愛実のエピソードのように、人間関係の多くが上下関係に支配され、なおかつその両極の立場を行ったり来たりするだけで、中間の対等な関係が乏しいような場合、精神分析ではそれをスプリッティングという防衛機制の働きによるものと想定します。

スプリッティングとは

スプリッティングとは、意識の領域がある基準によって真っ二つに分かれていて、その間を行き来するだけで、中間の状態が存在しない心理を指します。

今回のケースでは、人間関係において優位な立場に立って気分が良くなる状態と、その逆の立場になってしまい屈辱を感じる状態とに分かれてしまう状況です。

人間関係に関わる心理でスプリッティングが働くと、下の立場は辛いため、他人に対して常に優位な立場に立とうと動機づけられることになります。
しかし仮にそれに成功したとしても、今度は相手が不快に感じ始めるため、このような関係は長続きしません。

その結果、スプリッティングの防衛機制が働いている人は、良好な人間関係を築くことが困難になってしまいます。
なぜなら相手が不快に感じるような人間関係の形でしか、自分が満足感を得ることができないためです。

カヲルの「終わりにしたい」発言も本音の可能性が…

ですから4話のラストでカヲルが別れを告げるシーンも、ドラマの展開では愛実のことを思ってのことと推測できますが、これがもしリアルな関係なら、たびたび子供扱いされることに嫌気がさしても不思議ではないと思います*。

*より正確には、子供扱いされるだけでなく、同時に親身になってくれることから、そこには葛藤があってもおかしくありません。

以上のように、少なくても第4話までの『愛の、がっこう。』の愛実の心理描写には、人間関係におけるこのスプリッティングの様子がとてもリアルに反映されているように思えました。

次回はもう一人の主役のカヲルの心理を考察する予定です。

参考ページ:
『愛の、がっこう。』第4話あらずじ

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