愛情と性欲との結びつきは19世紀に生まれた「そうあるべき」との理念に過ぎない

今回は「私説:性欲は動物的な本能であると共に心理的・社会的な影響を強く受ける」の冒頭で触れた、ミシェル・フーコーの『性の歴史1 知への意志』を分かりやすく解説した上野千鶴子氏の『おんなの思想』の内容を参考に、夫婦やカップルの性の営みに関する常識を批判的に検討します。

権威ある「キンゼイ・レポート」の内容を否定するような書物を発表したフーコー

彼(アルフレッド・キンゼイ)は人間の性は動物と同じく「自然」に属すると考え、あたかも動物を観察するように人間男性の性行動調査を行い、1948年に「キンゼイ・レポート」(『人間に於ける男性の性行為』)(1950)を発表した。
キンゼイが考えたように、性が「自然」に属し本能的な動物行動であるとすれば、そこには歴史は存在しないはずだった。
それに対してフーコーは、性には社会や文化の影響を受けて変化し、私たちが思っている以上にその変化のスピードが早いことを論じた。
正確にいえば、フーコーが論じたのは「性の歴史」ではなく、「セクシュアリティの歴史」である。(『おんなの思想』P.153-154)

フーコーが論じたのは性そのものではなくセクシュアリティと呼ばれる性に関する概念でした。
しかしそれでも「キンゼイ・レポート」が当時はいわば科学的な事実として非常に大きな影響力を持っていたようですので、その権威あるレポートの内容を否定するような内容の書物を、思想界の巨人たるフーコーが発表したことで、上野氏をはじめとした知識人に非常に大きなインパクトを与えたようです。

また上野氏が訳注で指摘しているように、キンゼイの調査では学歴が属性変数に含まれ、それゆえ階級が性行動に影響するという仮説が示されていることから、同調査は実は社会的行動の調査であり、したがってそれが動物的行動の調査と誤って理解され広まってしまった可能性があるように思えます。

性に関する常識の多くは19世紀にヨーロッパのブルジョワ階級の人々によって考え出されたもの

フーコーは、今日でも私たちが信じている性に関する常識の多くが、19世紀にヨーロッパのブルジョワ階級の人々によって考え出された概念であるとし、その概念を「子どもの性の教育化」「女性身体のヒステリー化」「性倒錯の精神病理学化」「生殖行為の社会的管理化」の4つの特徴に分けて考察しています。
今回はその中でも私自身一番大きなインパクトを受けた「生殖行為の社会的管理化」について、それが意味することを私なりに考察します。

性行為とは愛する者同士が行うべきものとの常識は国家の人口統制の手段

生殖を目的とした異性愛~それがブルジョワ階級の定義したセクシュアリティであり、性の統制であった。これによって古代ギリシャ時代には少年愛よりも下位に置かれた夫婦間の性愛の地位が、上昇していくことになる。
(中略)
4の「生殖行為の社会的管理化」とは、正常な異性愛カップルとされた夫婦が、生殖の単位として社会的統制の下に置かれることを指す。
(中略)
近代国民国家の中で、性行動と妊娠・出産の統制を通じて、人工の質と量の管理を試みなかった国家はない。女の子宮は国家に属する。だからこそ、多くの国で堕胎が犯罪とされたのだ。(『おんなの思想』P.161,163)

これらのフーコーの指摘から、性行為とは愛する者同士が行うもの、少なくても「そうあるべき」との広く普及する常識は、人間としてそれが自然なことだからではないのはもちろんのこと、個人の欲求でもなく、それはヨーロッパのブルジョワ階級の間で生み出された理念を、政府が国家繁栄のための人口政策に利用したものであることが分かります。

性行為を夫婦の営みと考える概念は明治以降に生まれたもの

また上述の記述はヨーロッパに関するものですが、同書では明治以前の日本の性事情についても触れています。

明治維新を迎えるまで日本では、ポリガマス(重婚的)な性習俗が続いていた。男色も女色も両刀遣いが行われていた。江戸時代は妻や母にする女を「地女」と呼び、性の快楽は遊女に求めるものだった。それが明治期の性指南書『造化機論』では、夫婦間の性愛が上位に上がっている。
おりしも開花ブームに伴って、「家庭」の概念が登場した。「家庭の幸福」を象徴するのが一家団欒である。相愛の男女、一夫一婦、未婚の子女、雇用される夫、専業の主婦、という性役割分担が組み込まれた「近代家族」の登場である。
(中略)
啓蒙的な性科学書として知られた田中良造の『奇思妙構 色情哲学』(1887)は、「人生の最大快楽は一夫一婦の中の存す」と謳い上げている。あたかも夫婦の間には、相互に性の権利・義務のみならず、快楽の権利・義務がなければならないように。(『おんなの思想』P.170-171)

驚くべきことに今日では不貞行為と見なされ兼ねない(民法770条)ようなことが、江戸時代ではむしろ常識的なことだったようです。
また今日では当然視されている家庭や家族を大事にすることについても、そもそも家庭という概念すらなかったことも驚きです。

愛情と性欲との結びつきは19世紀に生まれた「そうあるべき」との理念に過ぎない

もっとも私が一番気になったのは、引用の一番最後の「あたかも夫婦の間には、相互に性の権利・義務のみならず、快楽の権利・義務がなければならないように。」の部分です。

夫婦やカップルの人間関係の悩みの中に次のようなものがあります。

相手が自分に性的な行為を求めなかったり、あるいはそのような関心を示さないのは愛されていないから、あるいは自分に魅力がないからではないか。

このような悩みの背後には、愛しているのなら性欲を感じるのが当然、つまりそれが自然なことのはずなのに、そうならないのはおかしい。
ゆえにそれを愛情の欠如や、あるいはその愛情を引き出す性的な魅力の欠如などに原因を求めることになったのではないかと考えられます。

しかし江戸時代の性事情からも分かりますように、愛情と性欲とは必ずリンクするものではなく、そのような信念は明治期に推奨されるようになったものに過ぎません。
ですから上述の悩みは、本来悩まなくも良いはずのことを問題視しているということになりますが、そのように考えてしまうのも明治期に生まれた国家や知識人による啓蒙的な思想が、「そうあるべき」という理念を通り越して、正常な人間なら当然生じるはずのことという本能のように誤解されてしまっているためと考えられます。

補足)ちなみに日本では法律上、性行為は婚姻関係にある者の場合は互いにその義務を負う(民法770条1項5号)とのことで、こちらについても正直驚くと共に、詳しい事情は定かではありませんが個人的に国家の人口統制の影響力を感じました。

身体を利用した統制の恐ろしさ

これが性をはじめとした身体を利用した統制の恐ろしさです。
単なる理念に過ぎなかったはずのことが、長年多くの人に共有され続けることで、いつしか正常・異常の判別手段に置き換わり、そうなれば個々人がその自覚なしに統制を強化していくと共に根拠のない偏見を生み出すのですから。

そしてその最たるものの一つが異性愛を正常とみなす信念です。
ですがフーコーが指摘した歴史が示すように、そのような信念は元々は人口をコントロールするために広められたアイディアに過ぎないものです。
恐らく他にも本来理念に過ぎなかったものを人間としての本能と錯覚していることがあるはずです。

引用文献

上野千鶴子著『〈おんな〉の思想-私たちは、あなたを忘れない』集英社、2016年

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