共感と同情との違いは自己開示か否かの違い-クライエント中心療法・自己心理学における傾聴

共感と同情との違い:

投影と共感についてのブログ(作成中)を書くため共感についてネットで調べていますと、共感と同情との違いについての記事を複数目にしました。それらの記事によれば共感と同情との違いとはおよそ次のようなものでした。

共感

共感とは相手の立場に立って、あるいは相手の身になって、もしくは相手の準拠枠を通して、あたかも相手が考える(感じる)ように自分も考える(感じる)行為。
また傾聴により伝えられるのも、この共感で得られた理解(共感的理解)。

同情

同情とは自分の過去の体験や価値観から、相手の思考や感情を推測する行為。

以上を「自他の心理的境界」の観点から要約いたしますと、共感とは相手の思考や感情を相手の内側(心の中)で直接感じ取る行為であり、同情は外から相手の思考や感情を推測する行為となると思われます。

どちらの行為がより相手の方の心理を正確に理解できるかといえば…直接相手の方の心に触れることができる共感に決まっています。
同情における推測はどこまで行っても推測の域を出ませんので、当たり外れが生じることは避けられません。

共感の定義への疑問

このようにそれぞれの定義を見る限り、心理カウンセリングなどで傾聴などによりクライエントの心を理解するためには、共感の方が効果的なのは疑いの余地がありません。

しかし私には共感の定義に対してある疑問が浮かんでしまいます。
それは共感の定義で述べられている、クライエントの心の中に入り込み直接クライエントの心を理解するような行為が本当に可能なのか?という疑問です。

もし本当にそのようなことが可能だと致しますと、クライエントは心理カウンセラーに心の中を覗かれていることになります。これはクライエントにとってとても恐ろしい体験となりかねません。

ロジャーズのクライエント中心療法における傾聴と共感

おそらくこのようなスピリチュアルな力が信じられている背景には、クライエント中心療法の創始者のロジャーズの見解が影響しているように思えます。
なぜならロジャーズはクライエントの心を内側から理解することの必要性を説き、そのような行為を可能とする心理療法として傾聴を推奨しているためです。

私自身、心理カウンセリングのトレーニング中にクライエント中心療法やパースンセンタードアプローチの本を読み「傾聴こそ理想的な心理療法!」*と思いつつも、その技法のあまりの要求度の高さに「自分にはとても無理…」と感じたことを覚えています。

*これは自己愛の問題の表れかもしれません。精神分析家のアリス・ミラーは『才能ある子のドラマ』の中で、心理カウンセラーを志す人の多くが幼少期の養育環境の影響で自己愛障害を持つ、もっといえばアダルトチルドレンの人が多いことを指摘しており、私も例外ではありません。

このため(教育分析や自己分析などのトレーニングでいくらかは克服されているとはいえ)性格的に自己愛の強い心理カウンセラーは理想自己(理想的な自分のイメージ)が非常に高く、それゆえ人間業とは思えない神の芸当と思えるような心理カウンセラーのイメージを提示する心理療法ほど心動かされる傾向があるようです。
当時私が感じた高揚感も、今思えば過大な理想自己のイメージを具現化してくれる心理療法に出会えたことへの興奮であったように思えます。

ただし以前に傾聴のセミナーを受講していたときに、傾聴による共感的理解の仕方の説明を受けた際「他人である心理カウンセラーにクライエントの心を直接理解することは不可能であり、たとえそのように感じられたとしてもそれは推測に過ぎない」と説明されました。

したがってクライエントの心を「内側から」理解することが可能とする考えの是非については、クライエント中心療法やパースンセンタードアプローチの中でも必ずしも意見の一致を見ていないようです。
もっともそのセミナーでは同時に「クライエントの準拠枠による理解」の必要性が強調されていたため、「クライエントの心の外側からどうやって準拠枠を知ることができるのか?」また「外側から分かる準拠枠とは一体何なのか?」と混乱したことも覚えています。

コフートの自己心理学における傾聴と共感

ロジャーズとはまったく異なる視点から心理カウンセリングの場での傾聴による共感的理解の重要性を説いたのが自己心理学の創始者のコフートです。
コフートによる共感の定義はロジャーズのそれと異なるところはありません。しかしその共感を用いる心理カウンセラーの態度に対する考え方はロジャーズとは大きく異なっています。

ロジャーズは共感で定義される「クライエントの心の内側からの理解」が実際に可能であると考え、それゆえ共感は心理カウンセラーが身につけなければならない不可欠の治療態度であるとしました。
しかしコフートは、共感とはあくまで努力目標であり、いくら共感しようと努力しても必然的に生じてしまう共感のし損ない(共感不全)が外傷的とならない程度であれば、むしろその共感不全が治療的に作用すると考えました。
パーソナリティ障害の診断と治療』ではこの点を「ロジャーズを凌駕した点」と高く評価しています。

フォーカシング指向心理療法の創始者ジェンドリンや小児科医にして精神分析家のウィニコットも、心理カウンセラーの共感不全が避けられないことを指摘しています。

共感とは自己開示を伴わない同情

私自身もコフートの共感の見解に同感です。もっといえば心理カウンセラーにできるは冒頭の同情の定義で述べられていた「自分の過去の体験や価値観から、相手の思考や感情を推測する」ことだけのような気がします。

しかし心理カウンセラーが傾聴する際に用いる同情の心理は、日常会話で示される同情の仕方とは異なります。
日常会話で示される同情では「私も同じ気持ち(あるいは考え)です」との自己開示がなされます。

しかし心理カウンセラーは傾聴するに際して、このような自己開示的な応答はしません*。自己開示の代わりに「それはこういうことでしょうか?」とクライエントに自分の伝え返しが正しいのかどうかを確認していただきやすいように、しばしば質問の形を用います。
言葉を変えれば自分の考えや感じていることが同情により得られたもの、つまり推測に過ぎないことを自覚しているため、その正否をクライエントに確かめていただくわけです。
したがって傾聴で用いられる共感とは、実際には自己開示を伴わない同情であると考えられます。

*これは「質問されても一切自己開示しない(答えない)」という意味ではありません。

自己開示を伴わない同情による傾聴が反治療的に作用するケース

最後に自己開示を伴わない同情による傾聴が反治療的に作用するケースについて考察します。

自己開示を伴わない同情による傾聴において、心理カウンセラーが自らの見解を同情によるもの、つまり推測に過ぎないことを自覚している限り特に問題は生じません。

問題は心理カウンセラーが自らの見解を推測ではなく客観的事実だと誤認、言葉を変えれば共感により得られたものと錯覚しているケースです。
この場合、心理カウンセラーの応答はいわゆる解釈の押し付けになってしまいます。

要約いたしますと、ロジャーズの提唱する「共感による傾聴」はもし本当に可能であればそれは素晴らしいことでしょうがおそらく理想に過ぎず、実際に心理カウンセリングの場で行われている傾聴は「同情による傾聴」であり、しかしそれは心理カウンセラーの自己開示を伴わない同情による傾聴であると思われます。

そして「同情による傾聴」を「共感による傾聴」を錯覚することは、自身の見解を客観的事実であると誤認し、治療に有害な解釈の押し付けを生じかねない危険な行為であると考えられます。

「共感」をテーマとした心理学の本

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