いじめの背後に働く羨望の存在~自己愛講座30

昨晩、NHKEテレで「いじめをノックアウトスペシャル 第8弾」という番組が放送されていました。

録画予約してまだ見ていませんので、この番組ではどうだったのかは定かではありませんが、こうした討論番組に登場する当事者である中高生の方からしばしば(「も」ではなく)「いじめられる方に問題がある」旨の発言が発せられることがあります。
今回はこの発言を頼りに、その是非(善悪)を問うことよりも、その背後に働く心理的な要因を考察してみたいと思います。

中高生の間では「いじめられる方に問題がある」旨の考えが力を持っている

「いじめられる方に問題がある」旨の発言が特に印象に残っているのは10年近く前に同局の「Rの法則」で放送された、いじめ特集です。
レギュラーメンバーの中高生(大半は高校生)が、いじめについて討論していましたが、誰が一番悪いのかという犯人探しの展開の中で、いじめとは「いじめられる人がいじめられて当然のことをするから起こるものである」との見解が主流を占めていました。
さらにその、いわば自業自得であるにもかかわらず自殺する人がいることに対しても「親を悲しませて申し訳ないと思わないのか」と容赦ない批判に曝されていました。

ですが、いじめの熾烈さを考えますと、この考えに従えば周囲の人から見て弁解の余地がないほど明らかに酷いことをしたからこそ「いじめ」という行為によって罰せられる(報復を受ける)、それゆえの自業自得であり、そうであれば自分が「いじめ」のターゲットになる可能性をそれほど心配せずに済むはずです。
しかし実際は、傍観者の大多数の人が懸念しているように、少しでも目立てば今度は自分が「いじめ」のターゲットにされかねないとの不安が蔓延しているようです。

補足)この他に、少しでも相手の機嫌を損なえば「いじめ」のターゲットにされるとの不安も広く見られますが、こちらは些細なことでも自尊感情が傷つく人が増えて来ていることの反映と考えられます。
ですがそれについても後述の羨望による怒りの解釈で部分的には説明が可能と考えられます。

羨望による怒りが、いじめの一因となっている

ではなぜ少しでも目立つと、それがいじめの原因となってしまうのでしょうか?
あくまで私見ですが、その多くには一般的には嫉妬と呼ばれる羨望が関係していると思われます。

羨望とは、他人が自分にはないものを持っていることで羨ましさを感じると共に、その他人と自分とを比較して惨めさ無価値感を感じるもので、特に後者の感情が時に激しい怒りを生じさせます。
そしてその激しい怒りが、自分を惨めな気持ちにさせた相手を破壊したい(報復したい)との気持ちを生み、これが「いじめ」の一因になっているのではないかと考えられます。
例えば「あいつ、調子に乗りすぎている」と思い許せない気持ちになった時などが羨望の一例です。

羨望は相手の心に悪意を見てとる

また羨望が激しい怒りを生じさせるのは、自分が惨めさや無価値感を感じるからだけではありません。
それに加えて、事実に関係なく相手の心に悪意を見てとるためです。
例えば誰かが楽しそうにしていれば、その様子から「どうだ、羨ましいだろう」と、これ見よがしに自慢しているように感じられたりします。
そしてこの感覚が「傷ついた」のではなく「傷つけられた」という被害感情を生じさせ、その人を報復行為へと駆り立てます。

自己愛的な人は人間関係のあらゆることで羨望に駆られがちになる

これまでの自己愛講座で述べてきましたように、自己愛的な性格構造の人は自尊感情が著しく低いため常に自己価値(自分の存在価値)の問題に囚われ、また自尊感情を自分自身で高めることが困難であるため、それをもっぱら他人との関係の中で満たそうとする傾向があります。
そのため「理想化-価値下げ」の防衛機制が頻繁に働き、人間関係の優劣に囚われがちになります。
そしてその際、自分が上と感じるときには優越感を感じ自尊心が高まりますが、そうでなければ惨めさを味わい激しい羨望を抱くことになります。

また自己愛的な人は、人間関係を優劣を表すものと捉えているため、およそあらゆることにそれを見出し、その度に羨望に基づく怒りや不満を感じることになります。
例えばテストの点数の優劣だけでなく、たとえ同じ点数であったとしても自分の方が努力しているのに同じ点数であることが許せなくなります。
なぜならそれは自分の要領の悪さを示すものであり、そのことで惨めさを味わうためです。

さらには上述のような数値化されたものだけでなく、挨拶のされ方や何気ない仕草一つに一喜一憂したり、あるい「〇〇さんには~したのに私には…」と他人との関係で優劣を感じるというように、他人のあらゆる態度を自分に対する評価として解釈する傾向があるため、些細なことで傷つき、また他人との比較で羨望に駆られることになります。

いじめのターゲットは無秩序に選ばれるのではなく、どのようなことでも羨望の要因と成り得るため、そのように見えるだけ

自己心理学や一部の社会学では、日本人はそれをあからさまな態度に出さないだけで、内面は総じて自己愛的な性格構造に満ち満ちていると考えられています。
もしこの見解が妥当なものであれば、常に他人との優劣に囚われ、些細なことで傷つき、かつその自分を傷つけた相手に対して恨みを抱くことが、程度の差こそあれ個々人の心で頻繁に生じていることが予想されます。

ですから誰もがいじめのターゲットに成り得るように見えるのは、ターゲットが無秩序に選ばれるのではなく、むしろ明確な理由があり、しかしその理由がとても些細なものであるため、実質「誰でも」の状態になってしまっているのではないかと考えられます。

「いじめられる方に問題がある」旨の考えは自己愛的な性格構造と羨望の働きによるもの

最後に以上の考察から冒頭で紹介した「いじめられる方に問題がある」旨の考えは、自己愛的な性格構造および羨望の心理により生み出されたものと考えられます。

個々人が自己愛的であるがゆえに、人間関係の些細なことにまで優劣を感じて頻繁に傷つき、さらには羨望の働きによって、そこに相手の悪意を見てとる。
このため些細なことでも悪意に基づいた酷い行為とみなされ、いじめられて当たり前、自業自得という考えに至るのではないかと考えられます。

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