カウンセラーのためのアサーション-自己分析のきっかけとなった本:
心理カウンセリングの場面設定・インフォームド・コンセントへの疑問-本・テレビによる自己分析・治療でも取り上げた「カウンセラーのためのアサーション」という本を読んでいて、また別の気になる箇所に目が留まりました。
それはアサーションやその理論の根底にあるロジャーズのクライエント中心療法(来談者中心療法)の対等な人間関係という概念です。
ロジャーズのクライエント中心療法の対等な人間関係と傾聴セミナーでの沈黙による心的外傷体験:
この対等な人間関係という概念から(おそらくロジャーズのクライエント中心療法つながりで)以前の傾聴のセミナーでの体験が思い出され、あのとき当惑した出来事の意味が私なりに理解できました。
それはクライエント役で行った傾聴の練習の際に訪れた沈黙への辛さとカウンセラー役の方の反応、およびその反応に対するファシリテーターの方の評価についてでした。
セミナーの参加者には守秘義務がありますので詳しいことはお話できませんが、傾聴では沈黙が生じクライエントがどんなに困った様子でも、カウンセラーの方から沈黙を破ることはクライエントの(おそらく「何も言わなくても助けてくれる期待を抱かせる」という意味での)カウンセラーへの依存心を助長するため、カウンセラーの方から決して沈黙を破ってはいけないと教わりました。
そのため、お互いに苦痛な沈黙に耐え続けることとなりました。
そして傾聴の練習の振り返りの際にクライエント役として「沈黙が辛かった」ことを話しましたが、ファシリテーターの方は(一瞬迷われた様子でしたが)そのことには触れずカウンセラー役の頑張りだけが評価されました。
当時は「沈黙に助け舟を出したぐらいでクライエントが途端に病的なまでにカウンセラーに依存し出すはずがない」「(役とはいえ)クライエントの苦痛を無視するとは何がクライエント中心療法だ」「カウンセリングとはクライエントのために行われるもののはずなのに、そのクライエントの気持ちが一切無視されるのはおかしいのではないか」などと怒りを感じましたが、先の対等な人間関係という概念に照らすと、なぜ沈黙に際してファシリテーターの方があのような態度を見せたのかが私なりに理解できました。
おそらくロジャーズのクライエント中心療法の理論では、クライエントとカウンセラーとは完全に対等な立場(人間関係)であるがゆえに、そこに援助する者と援助される者との立場の違いは「存在しない」のでしょう。
なぜなら立場が違えば、もうその人間関係は対等とはいえないためです。
そしてクライエント中心療法的なアプローチを取るカウンセラーに求められているのは対等な人間関係の提供であるがゆえに援助的な行為*は一切禁じられ、先の「クライエントの沈黙に対して黙って見守る」態度もその一環だったものと考えられます。
*ここでの援助的な行為には「具体的な助言」だけでなく、厳密には「質問」「洞察を促す行為」など、カウンセラーの介入と受け取られるすべての行為を指します。
援助を期待することの「誤り」を直面化され自己治癒力を働かせるクライエント?
このクライエントがどんなに困惑や不安な気持ちに陥ったり、あるいは怒りに駆られたとしても終始一貫して対等な人間関係を保ち続けるロジャーズ派のカウンセラーの態度は、クライエントの立場からすれば「カウンセラーに心理的な援助を期待しても無駄」言葉を変えれば「カウンセラーに心理的な援助を期待した自分の考えが間違っていた」ことを絶えず直面化されることになると考えられます。
実際、私も先の傾聴セミナーでクライエント役を担当した際、笑みを浮かべながら時折私の話を「一字一句同じに」繰り返す(オウム返し)以外のことは何もしてくれないカウンセラー役の方の態度を目にして「この人には何を期待しても無駄だ」と痛感させられました…
これはあくまで私の解釈ですが、おそらくロジャーズのクライエント中心療法の理論では次のような治療機序が想定されているように思えます。
1.カウンセラーの心理的な援助を期待して、クライエントがカウンセリングルームを訪れる
2.しかし意外なことにカウンセラーは何ら援助らしい援助をしてくれない、たとえどんなに懇願したとしても…
3.援助を期待していたカウンセラーに失望した結果、絶望感に陥るクライエント…
4.やがてクライエントはカウンセラーに援助を期待していた自分の考えの「誤り」に気づかされ「自分の問題は自分で解決しなければならない、決して他人を頼ってはならない」ことを悟る
5.こうしてクライエントの心の中に元々存在していた自己治癒力が呼び覚まされ、クライエントはその自らの自己治癒力を活用して問題の解決を図り立ち直る
※なお、この治療機序は過去の私自身のカウンセリング体験を踏まえて、私なりにクライエントの立場に立った上で想定されたものであり、したがってロジャーズやその他のクライエント中心療法のカウンセラーのそれとは異なります。
信頼と甘え-ダブルバインドの葛藤に苛まれるクライエント:
もっともこのようカウンセラーの態度は(他人の援助を必要とするほど悩んではいないという意味での)健全な心の持ち主でも耐え難く、ましてやそうではないクライエントにとってはますます耐え難いものとなるはずです。
そのためロジャーズ派のカウンセラーには受容的な態度、つまりクライエントの苦悩に理解を示し、温かい眼差しで見守り続ける態度が求められます。
しかしこのロジャーズ派のカウンセラーの態度は、クライエントに「信頼を寄せることはできても、決して甘える(期待を寄せる)ことは許されない」との、一種のダブルバインド(二重拘束)ともいえるような葛藤を生じさせることになります。
なぜならここでの甘え(期待心)とは、通常許される範囲を超えた過剰な依存心ではなく、究極的には他人への期待と受け取られる「あらゆる」心理や行為を指すためです。
NHKスペシャル うつ病治療 常識が変わる-自己分析のきっかけとなったテレビ番組:
その後、冒頭の「カウンセラーのためのアサーション」を読んだ日の夜、録画していた『うつ病治療 常識が変わる』と題するNHKの番組の後半でたまたま心理療法が話題として取り上げられていました。
(前半は無秩序な抗うつ薬その他の向精神薬の投薬治療の弊害についてでした)
番組ではうつ病の投薬以外の治療手段として認知行動療法*という心理療法を取り上げ、国を挙げて認知行動療法による うつ病治療に力を入れるイギリスの例を紹介し、それに対して日本の心理療法による うつ病治療の主流が傾聴であることを提示していました。
*クライエントの抱える心理的な問題の原因が非適応的な考え方にあると仮定し、その非適応的な考え方をより適応的な考え方に変えられるように、クライエントに対して質問などをとおして積極的に促す心理療法。
問題の原因を知っているのはクライエントではなくカウンセラーであるとの前提、またカウンセラーが黙って話を聞くのではなく積極的に介入するなど、クライエント中心療法とは対極にあるような心理療法です。
このNHKの番組は直接的に傾聴を批判しているわけではありませんでしたが、うつ病治療に一定の効果を上げている認知行動療法と対比する形の表現が、私には「うつ病治療に傾聴を用いるだけではあまり効果がない」ことを暗に示唆しているように思えました。
日本の心理カウンセリングの世界では「カウンセリング=傾聴」といえるほど、カウンセリングといえばまずは傾聴することが基本中の基本と考えられ、私もそう教わりました。
しかしこの心理カウンセリングの世界で長年(40年以上!)信じられてきたその常識も、このNHKの番組を見る限り世間一般の印象(評価)とは徐々にかけ離れてきているようです。
※なお、このような世間との認識のずれが生じる原因についても、先の傾聴セミナーに代表されるような傾聴のトレーニングの仕方に問題があるように思えます。あくまで私見ですが…
傾聴に固執する治療態度こそが問題:
もちろん「話を聞いて欲しい」と望まれるクライエントに対して傾聴は非常に有効な技法であり、その意味で傾聴自体を批判するつもりは毛頭ありません。事実、私自身もカウンセリングの時間の大部分を傾聴に費やしています。
しかしこれが、しばしばロジャーズ派のカウンセラーに見られると噂される傾聴一辺倒のカウンセリングとなると話は別です。
私にはクライエントはただ話を聞いてくれるだけでなく、同時に心理的な援助をも求めているのであり、その意味でクライエントとカウンセラーとの間には、最初から立場の違いが生じているように思えてなりません。
ロジャーズのクライエント中心療法の想定する対等な人間関係は、確かにそれは素晴らしい人間関係だとは思いますが、それは理想に過ぎない非現実的な概念であり(援助する側という意味で)立場上優位にあるカウンセラーが対等な人間関係であることを強調するような態度は、援助を求める立場のクライエントからすれば、ときとして非常に冷たい印象を与えてしまうとの懸念があります。
そしてこのような冷たい印象を与える点では、皮肉にもクライエント中心療法がかつて批判の矛先を向けた精神分析の中立性の原則を厳守するカウンセラーと何ら変わりないようにも思えます。
少なくとも「クライエントの欲求を決して満たしてはならない」という点では…
P.S. その後トラウマ(心的外傷)問題のバイブルと称されるハーマンの『心的外傷と回復』で、クライエントは「不平等な関係に身を委ねるがゆえに、親に甘える幼児のような感情を持たざるを得ない」旨の記述(増補版 P.207)を目にしたことで、ますます治療関係は対等な人間関係ではないとの認識を新たにしました。