私説:アイデンティティの感覚は自己不全感により自覚されるもの

前回の「仮説:人は自尊心の拠りどころとなっていることに対して非常に高い価値を置き、それが激しい対立を生み出す」で、自尊心と価値観の形成との関係について書きましたが、その自尊心に影響を与える要素の一つにアイデンティティと呼ばれるものがあります。
今回はそのアイデンティティについて私自身の経験を元に書かせていただきます。

アイデンティティの定義とその変化

まずアイデンティティ(英:identity)とは精神分析の一派の自我心理学に属する精神分析家のエリク・エリクソンが生み出した概念で、元々はEgo Identityの訳語である自我同一性と言われていました。

当初はエリクソンのライフサイクル論の最後に段階に登場する、心理的に成熟した大人になる前の青年期(モラトリアム期)において、様々な葛藤と向き合いながら獲得される、自己(自分という感覚)が安定化する状態のことを指しました。
しかしその後、精神分析の世界にとどまらず日常会話の中で使われるようになってからは、主にオンリーワンという言葉に象徴される「自分らしさ」や「自分に固有の価値」、あるいは自分の(社会的な)存在価値などが明確に感じられる状態を指すようになってきたと考えられます。

このように当初は個人の精神内界の状態を表すものから、社会との関係の中で感じられるものへと変化してきたと言えます。
そしてこのアイデンティティの概念の変化は、フロイトから始まりエリクソンの頃(1950年代)までは主流であった、自我(エゴ)のコントロール力を鍛えることで人間は成長すると考えられていた時代から、それだけでなくコフートが自己対象(欲求)と名づけて研究した、社会からの承認などの肯定的なフィードバックや良好な人間関係も心の成長に欠かせない要素と考えられるように変化してきたことの影響と考えられます。

アイデンティティの確立が充実した人生には欠かせないとの一般通念

このアイデンティティの概念はしばしば心理的な安定感をもたらすために欠かせないもの、言葉を変えればアイデンティティがしっかり確立されて初めて、人間は自分らしさを発揮して充実した人生を送ることができると考えられ、私自身もこれまでそのように思ってきました。
またそのように考えられているからこそ、多くの人が「自分探し」と総称されるような「自分らしさ」や「本当の自分」あるいは「自分の真の価値」を探し求めるのだと思われます。

アイデンティティの確立を切望していた若い頃の私

ところが私の人生を振り返ってみますと、このアイデンティティに関する一般通念が通用しないように思えるのです。

若い頃の私の人生は、まさにこのアイデンティティとの戦いでした。これまでの自己愛講座で触れて来ました自己愛的な性格傾向が顕著だったため、誇大モードにある時の「自分にできないことはない」ように思える根拠のない自信に溢れた状態と、抑うつモードのある時の「自分は生きていても仕方がない何の価値もない人間」のように思え不安に圧倒される状態とを四六時中行ったり来たりするだけで、確固たる自分というものが存在しないように感じられました。

そしてそのような私に「自分らしさ」「自分に固有の価値」「存在価値」などを表すアイデンティティという概念はとても魅力的に写りました。
つまりこの時の私はアイデンティティに飢えていた、あるいはその確立を切望していたのです。

今もアイデンティティを確立した実感のない私

次に現在の私に話を移すと、幸いにも当時のような誇大モードと抑うつモードという極端な心理状態を経験することは滅多になくなりました。

具体的には「自分にできないことはない」かのような心理状態を空想上で楽しむことはあっても、当時のようにそれを現実と混同(錯覚)するようなことはなく、また何か自信を失うような出来事があっても、数十分もすれば気持ちを切り替えられるような考え方をし始めて、すぐに抑うつ状態から脱することができるようになりました。
そうして当時よりも遥かに自己コントロール力が増した私は、自分の望む人生により多くの時間やエネルギーを使えるようになり、その結果以前とは比べものにならないほどの人生の充実感を感じるようになりました。

ところがこの私の変化にアイデンティティの確立はほとんど関係がない、少なくても私にはその自覚がないのです。

例えば今の私は自分には何の価値もない」と思っていた当時より遥かに自信に溢れていると思いますが、私のような人は他にもいるでしょうから「自分に固有の価値」とはとても思えず、またそれは多くのことを実行できる「強み」だとは思いますが「自分らしさ」と言えるほどの親しみは感じません。
なぜなら今の私には今の状態が、ごく普通の日常になってしまっているためです。当たり前のこと、常識と思えるようなことに対して、人は特別に価値など感じたりはしません。

また自分の(社会的な)存在価値についても同様です。その都度、周囲の人の反応によって自分が人の役に立っていることを実感するときはありますが、日頃から人の役に立つ人間にならねばと意識している訳ではありません。

アイデンティティの感覚は自己不全感により自覚されるもの

結局どれほど価値があるものでも、それが恒常的なものになってしまえば、それはもはや特別なものではなく、むしろ「標準的なもの」と見なされ、アイデンティティもその例外ではないのだと思います。

以上、一個人の人生からの考察ではありますが、アイデンティティは喪失する(クライシスに陥る)あるいはそこまで至らなかったとしても、専門的には自己不全感と呼ばれるで自分に関する様々なことに不満を感じる状態で自覚される類のものであると考えられます。

アイデンティティ(の感覚)はコフートの自己対象理論に照らしても、心理的な意味で生きるために無くてはならないものです。
しかし一たび確立されて(満たされて)しまえば、それは空気のように存在するのが当たり前で意識されることさえないものなのだと思います。

何か熱中できるものがあればアイデンティティの感覚は希薄でも構わないのかもしれない

最後に、現在の私の充実感はカウンセリングという仕事にせよ、もう一つの活動である写真家の領域、そしてこうした文章を書くことにせよ、やりたいことが見つかり、それに対してある程度の評価を得て楽しく打ちこめていることが大きいと思われますので、同様の状況にある人にとっても、アイデンティティの感覚が特に意識されなくても何ら支障はないのではないかと予想しています。

参考文献

E.H.エリクソン著『アイデンティティとライフサイクル』

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