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仮説:人は自尊心の拠りどころとなっていることに対して非常に高い価値を置き、それが激しい対立を生み出す

以前に「古代ギリシアのソフィストの貢献~相対主義的思考が2500年も前から存在していたことに驚き」という記事を書きました。
ここでの相対主義的思考とは、どのような考え、たとえそれが自然科学の分野における客観的な事実を突き止めようとするようなものであったとしても、その論者の主観を色濃く反映している、したがってこの世に客観的な事実や普遍的な真理などというものは存在しないという考え方です。
この考え方は現在は、心理学の分野では間主観的アプローチやプロセスワーク(プロセス指向心理学)に、社会学の分野では社会構成主義などに見られます。

今回は相対主義的思考の具体的な現れ、つまり人間のどのような心理が、その人の理論形成に影響を与えているのかについての考察です。

仮説:人は自尊心の拠りどころとなっていることに対して非常に高い価値を置く

私が思うに、そのような理論形成にもっとも大きな影響を与えるのは自尊心ではないかと考えられます。
より具体的には、それが正しい・優れているなどと思うことで自分の価値が高まったかのような感覚(=高揚感)を感じることに対して、人はそれを実際にも(客観的に)そうに違いないと思い込む強い傾向があり、それが理論形成にも反映されるという仮説です。

価値感の形成過程には理想化自己対象も深く関係している

またこの仮説には、これまで何度か触れました理想化自己対象も深く関係していると考えています。
理想化自己対象には様々な機能がありますが、今回の仮説に特に関係しているのは、誰かや何かを非常に高く理想視し、その理想化された存在との一体感を感じることで自分までもが同じように素晴らしい存在になったかのような(自分の価値が高まったかのような)錯覚が生じ、それが自尊心の高まりとして感じられる作用です。

このように書きますと何かとても病的な印象を受けるかもしれませんが、これと似たようなことを私たちは、それと気づかずに頻繁に行っています。
例えば誰かと好きなものに関する話をしていた時に、自分がとても好きなもののことを少し批判されただけなのに、なぜかとても嫌な気分になり、しまいには無性に腹が立ってケンカになってしまったことはないでしょうか。

それがどんなに好きなものであったとしても、それは誰か別の人がつくったり考えたりした、物理的には自分とは関係がないもののはずです。
しかし物理的には別物であっても、それを「好き」という気持ち(感情)自体は紛れもなく自分から生じた、自分の心の一部分に他なりません。
こうして自分のことを直接批判されたわけでもないのに、なぜか嫌な気分になるということが起こり得るのではないかと考えられます。

ましてやそれが非常に理想化され、理想化自己対象として自尊心の重要な拠りどころとなっているような大切なものであれば、その批判は大切な自尊心の拠りどころへの直接的な攻撃と感じられるはずです。
さらにそれが自分自身が作り出したモノや考え(理論)であった場合には、それらの対象と自己との結びつきはさらに高まり、それへの批判は更なる自尊心の傷つきや怒りを伴うはずです。
(私自身も自分の考えを批判されると、それを表出するかは別として、内心では猛烈に腹が立ちます)

仮説:イデオロギーを巡る論争は、相手の最も大切な自尊心の拠りどころを攻撃しあっている

このように人には自分が好ましい感情を抱くことに対して、それを理想化自己対象として利用し、自尊心の拠りどころとする傾向を多分に有していると考えられますので、相対主義的な考え方からすれば存在するはずがない絶対的・普遍的な心理の存在を信じたり探究したりしている人の心の中では、その対象が非常に高く理想化され、かつそれが生きて行くために欠かせないほど重要な自尊心の拠りどころとして機能していることが推察されます。

しばしばイデオロギーを巡る論争は暴力沙汰や戦争へと発展してしますが、それは表面的には考え方の違いを巡る争いであっても、より深層レベルでは互いに相手の最も大切な自尊心の拠りどころを攻撃しあい、その傷つきに対する報復を繰り返しているのではないかと考えられます。

また自尊の拠りどころとなっているからこそ、それは容易に変えられず、またそれと異なる他人の見解を受け入れることが非常に難しいのだと思われます。
なぜならそれは自分らしさを変える(捨て去る)ことを意味しかねないためです。

そして容易に変えられないのだとすれば、無益な争いを避けるためには、せめて自分がしていることの影響の大きさ(相手の自尊心を深く傷つけていること)を自覚して、そうした行為を自制することではないかと私は思います。

追伸)このようなイデオロギー論争は心理療法の世界も例外ではなく、特定の心理療法を絶対視する人同士の結びつきは非常に高い反面、それ以外の流派の考えは批判の対象となるか見向きもされないかのどちらかのため、無数の村社会が形成されているのが現状です。

ちなみに私が精神分析中心とはいえ様々な心理療法を活用するのは、冒頭の相対主義的な考えを持っていることに加えて、それゆえどの心理療法のコミュニティーにも深く関わっていない、つまり居場所がないためです。
そのことについては「居場所は複数あった方が楽~精神のノマドのすすめ」にも書きましたように、その方が良いと考え敢えてそうしています。

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