これまで「選挙から窺える日本人の主体性の乏しさ~「この人に任せておけば万事上手くやってくれるはず」との期待の存在」において、カリスマ性を有する人を理想化して過剰な期待を寄せる日本の選挙の傾向を、そして「選挙では自分のメリットで候補者や政党を選んでも良いのでは」において、もっと自分本位に選挙に関われば、そうした傾向に変化がもたらさせるのではないかということを書きました。
この選挙に関して、もう一つ気になっているのが18歳選挙権に反対していた立場の人から「世の中のことをよく分からない人が投票すれば、その票によって好ましくない候補者が当選してしまう可能性がある」旨の意見が聞かれたことです。
今回は、この見解について検討します。
見識のある人のみで政治のことを考えれば世の中は良くなるという暗黙の前提
まずこの見解を疑問視する理由の一つは「選挙では自分のメリットで候補者や政党を選んでも良いのでは」にも書きましたように、知識の有無に関わらず誰でも投票できるのが民主政治である点ですが、もう一つの理由はこの見解が想定していると考えられる理想像への疑問です。
「世の中のことをよく分からない人が投票すれば、その票によって好ましくない候補者が当選してしまう」ことを危惧する人の心の中には、恐らく次の2つの暗黙の前提があるように思えます。
・見識のある人のみに選挙権を与えれば、その人たちによって選ばれた議員の活動によって世の中は確実に良くなる
・見識のある人はその卓越した知見により、人々が幸せになる方法を知っている
だからこの人たちにすべて任せておくのが一番良い、あるいは知識人を自負する人にとっては「自分たちにすべて任せるのが一番」という考えの存在です。
なぜならこのような前提が存在しないと投票者を特定の人に限るべきという発想にならないと考えられるためです。
ですがこうした人々は本当にそれほど優れた人たちなのでしょうか。
問題点は、ずっと後になってから判明することも多い
私たちは歴史上の様々な出来事に対して批判的な目を向けます。
ですがこうした後世の人の批判の的となる出来事は、最初から問題が生じることが分かっているとは限らず、むしろずっと後になってから問題点が判明することも少なくありません。
ですから見識のある人だけで世の中の仕組みを考えれば世の中が良くなるという考えには大きな限界があるように思えます。
誰もが幸せになれる社会など存在しない~人々のニーズの違いから必ず利害の衝突が発生してしまう
もう一つ、こちらの方がより大きな問題と思われますが、一部の人のみで社会のルールを作るべきとの考えの人の中には、そうした人たちによって作られる誰もが幸せになれるような理想的な社会のイメージがあるように思えます。
なぜなら、そのルールによって幸せになれる人とそうではない人が生まれるのであれば、そのようなルール作りを一部の人に一任するのでは必ず不公平感が生じてしまうためです。
ですが日常を見渡せば至るところで利害の衝突が生じています。これは人々のニーズが様々に異なるためです。
ですから誰もが幸せになれるような社会というものは、実は幻想に過ぎません。
できることと言えば、お互いに妥協し合う程度のことです。
以上のように、人々のニーズが様々に異なるため誰もが納得するような理想的な社会など存在しないこと、および制度の問題点というものは後になってから判明することも少なく最初からその効果を正確に予測することなど不可能であることから、見識のある人々のみによる理想的な社会の実現との考えは幻想に過ぎません。
それに対して前回の「選挙では自分のメリットで候補者や政党を選んでも良いのでは」に書いたような自分のメリットのことを考えて投票するような人にも選挙権を与えれば多種多様なニーズが反映され、その中でもっとも多くの票を集めた政策等が反映されることになります。
もちろんこれによって不利益を被る人も出てきますが、それも致し方ないことです。
誰もが幸せになれる社会の仕組みが存在しないのと同じく、誰もが少しも不利益を被らない仕組みというものも存在しないためです。
このように(すべての人ではなく)可能な限り多くの人々の幸福を目指すのが民主政治の基本的な枠組みであり、そこでは誰もが不満を感じない理想的な状況など最初から想定されていないのではないかと私は考えています。
だた、こうした多数決で物事を決める考えの元では少数派に属する人が不利益を被ることが多くなるため、今こうした人々の権利に関心が集まって来ています。
ですが、それも度が過ぎると、そのことが多くの人に多大な不利益をもたらす可能性もあります。
この点については別の機会に改めて記事にします。
(こちらは以前から書きたかったことでもあります)