NO IMAGE

自己分析のテーマとした症状:

久しぶりに体験した嘔吐恐怖症の症状(すき家で食事をした際の身につまされるような嘔吐恐怖

自由連想法による自己分析の内容(重要な連想のみ):

キャンペーン中で安いからと豚丼のメニューにした
いつもは魚のメニュー
身体に悪い食事
病気になる不安
何でも好き嫌いなく残さず食べなければいけない気がする

自由連想法による自己分析からの洞察:

健康への病的執着

どうやらいつもの健康的なメニューにかえて、豚肉のメニューにしたことが嘔吐恐怖症を引き起こしたようです。
以前に不幸な運命-自由連想法による自己分析57回目などで、幼い頃から嘔吐恐怖症に苦しんできたことに触れましたが、食事に関して私には他にも悩みがあります。それは健康への病的とも思える執着です。この健康への病的なまでの執着により食事の栄養のことが気になって仕方がなく、そのため食べたいものを自由に食べるということが私にはできません。
自分なりの栄養価の基準に適ったメニューでないと、安心して食事することができないのです。
今回は自分の(病的な)健康の信念に反する食事をしようとしたことが嘔吐恐怖症の要因だったようです。

嘔吐恐怖症の背後の過酷な超自我による自己懲罰

また今までは嘔吐恐怖を感じるときは、当然ながら嘔吐してしまうことへの恐怖として体験されたわけですが今回の嘔吐恐怖症では、それとは別の感覚への気づきがありました。それは過酷な超自我による自己懲罰です。
栄養バランスを無視した食事をしたことで、私の中の「健康であるためには常に栄養バランスを考えた食事をしなければならない」との病的な信念の持ち主が激怒し、謀反を働いた私に対して容赦ない自己懲罰を加えていました。それが「身につまされるような恐怖」として体験されたのでした。
この「常に」というのが厄介で、それはたとえ食欲がないときや腹痛のときでも例外は許されないことを意味していました。
また今まで栄養バランスを欠いた食事をすることで感じた「病気になるかもしれない不安」にも、不安の背後に自己懲罰的な恐怖があることが分かりました。

取り入れ同一視による自己懲罰

このような自己懲罰的な過酷な超自我の原型は母親の信念にあるように思えます。幼い頃から強迫的な母親は私に対して、どんなときでも食事を残さず食べるように躾け、その母親の信念を私は忠実に取り入れたようです。
余談ですが今回の嘔吐恐怖症に限らず、自己分析で自分の病的な部分や至らなさが洞察されるときは、多分に自己懲罰の力が働いている気がしてきました。と申しますのも、私の自己分析は大部分が自分の病的な性質の洞察に終止しているからです。
本来、自由連想法とは自己反省の道具ではないはずです。自分の至らなさばかりを洞察し続けるのでは治療的に働かないでしょうから。
これまで私の自己分析の多くは、主に母親からの取り入れで形成された過酷な超自我に同一化し、その超自我の立場からの自己批判や自己懲罰という形で行われていたに過ぎなかったのかもしれません…
嘔吐恐怖症ほか、恐怖症 克服・治療ガイド

NO IMAGE
最新情報をチェック!