夢:
録画していた番組から、このままでは何か大惨事が起きてしまうことを知る。
それを知った弟がその大惨事を阻止するために駅に向かう。私も後を追う。しかし途中で弟を見失う。
向こう見ずな性格の弟のこと、無茶をするのではと不安になり、見失ってしまったことへの罪悪感に駆られる。
必死に弟を探すが見つからない…
自由連想法による夢分析:
夢の中で感じた「自分が見失ったことで弟が災難に遭ったらどうしよう」という罪悪感
昨日の自己分析(自分の願望を相手の願望と思い込む投影同一視-自由連想法による自己分析150回)とのつながり
『サイコセラピー練習帳2―Dr.Mへの手紙』の症例テリーの、自分の力が魔術的に作用して母親を殺してしまう不安からの罪悪感
しかし弟の身を案じ心配になるのは当然ではないか?
もし弟が本当に災難に遭ってしまったら、たとえ不合理な考えだとしても「あのとき自分が見失いさえしなければ」と後悔の念と罪悪感に駆られるも当然なのではないか?
症例が重症の自己愛パーソナリティ障害だとされていたのも影響して、自分や母親の心理を過剰に病的なものと捉えていたのではないのか?
その行き過ぎた考えを修正するために、こんな夢を見たのではないか?
納得
(昨日の自己分析を読み返す)
おかしい…やっぱり、ちょっと異常に思える
しかし少なくても夢の中の私の心理は、(非科学的だとしても)それほど病的だとは思えない
夢の中の私の心理と、昨日の自己分析での母親と私の心理とでは、どこが違うのだろう?
不安の根拠の有無だ
夢の中では「実際に」弟が行方不明になっている
しかし昨日の己分析での母親と私のケースでは、不安になるような現実の出来事は何も起こっていない
それにも関わらず心配に駆られている
もう一つ違う点がある
昨日の己分析での母親と私のケースでは「自分を気にかけて欲しい」気持ちを相手に投影していた
しかし夢の中の私にそのような願望は微塵もない
ではなぜ、このような夢を見る必要があったのだろう?
(改めて夢を見直す)
忘れていた夢の前半部分を思い出す
部屋にはもう一人いて、録画は彼のためにしたものだった
しかし大量に録画したため、どれが彼のために録画したものか分からない
そのことで彼が腹を立てるのではないかと内心、気が気でない
焦って必死でレコーダーを操作する
「必死で」の部分が弟を探しているときと同じだ☆
子供の頃の記憶
母親がぎっくり腰になったときのお金の心配
そのことで母親から「こんなときにお金の心配なんて!」と叱責
あれからだろうか…他人のことをあまり心配に感じなくなり、そんな自分を冷たい人間だと思うようになった
人に慰めの言葉をかけるのも苦手だ
そうすることで自分が「上から目線」に立っているような気がして、相手から逆に責められる気がしてできない
慰めることも心配することも、自分がそのような境遇に置かれていない優越感から相手を馬鹿にする行為のように思える
だから、どちらもできない
(風邪による頭痛が酷くなってきて、これ以上の夢分析は断念)
夢分析からの洞察:
心配や慰めへの罪悪感
自己心理学の理論を当てはめれば、子供の頃の母親のぎっくり腰に象徴される母子関係の影響から、他人のことを心配したり慰めたりする気遣いは「優越感から相手を馬鹿にする行為」であるとの信念が形成され、その結果、心配や慰めに対して罪悪感を生じる心理が明らかとなりました。