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他人の不幸への「ざまあ見ろ」反応-冷酷非情の自己分析・治療 目次:

理解不能な他人の不幸に対する「ざまあ見ろ」反応
無感情な「ざまあ見ろ」反応
冷酷非情さを自己受容?
自虐的な罪悪感?

理解不能な他人の不幸に対する「ざまあ見ろ」反応:

心理カウンセリング夢診断・夢分析とは別の仕事(パソコンのメンテナンス)をしていたときのことです。
請負先の社長さんにお父親様が危篤との連絡が入りました。そのため急遽作業を中止し、社長さんは急ぎ病院へ。
しかしそのときの私の心の中には、驚きはありましたが心配心のようなものはほとんど生じませんでした。
いえ、それだけでしたら突然の出来事への動揺として理解できなくもないですが、さらに私の心に生じたのは「ざまあ見ろ」という言葉でした。
「ざまあ見ろ」と思うほど、日頃から社長さんに対して恨みを抱いていたと言うことなのでしょうか?
しかしそれもピンときません。

無感情な「ざまあ見ろ」反応:

ただ一つ印象的だったのは、その「ざまあ見ろ」に何ら感情がこもっていなかったことです。
ただ何となく(意味もなく)そう呟いてみた、とりあえず言ってみた。そんな印象なのです…

冷酷非情さを自己受容?

自分でも不思議ですが、実はこの他人の不幸に対する「ざまあ見ろ」反応は今回が初めてではありません。
これまでも幾度となく、他人が不幸な目に遭うのを見るたびに心の中で「ざまあ見ろ」と呟いているのです。何の感情も抱くことなく…
そして繰り返し同じような冷酷非情とも思える体験をしたためでしょうか。「ああ自分は、もうこういう人間なのかもしれない。これはもう変えられないのかもしれない。」との考えが生じ、それと同時にどこかホッとした、肩の荷が下りたような感じがしました…
ただどうでしょう。変えるのが困難なことを受け入れ楽な気持ちになること自体は自己受容だとしても、それが今回のように「冷酷非情」とも思える心理に対しても当てはまるものなのでしょうか?
たとえばすごく極端な話、快楽殺人者のような人がいて、その人が「ああ、自分が人を殺すことに快感を覚えることは仕方がないことなんだ」と心の底から実感することも、はたして良い意味での自己受容といえるのでしょうか?
そうではないような気がします。

自虐的な罪悪感?

ただこれまた不思議だったのは、他の社員の方にも心配している様子がほとんど見受けられなかったことです。
もしかして、これが身近な知人の不幸な出来事に対する一般的な反応なのでしょうか?
そうだとしますと私は、気にする必要のないことに酷く罪悪感を感じる自虐的な人間ということになるのですが…
しかしこれもどこか自己正当化に過ぎないような気がして釈然としません…
他人の不幸をテーマとした本

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