子どもの頃の奇妙な空想がリアルに蘇る…
昨年末に見た展示「柴田七美「アクター」展感想~生気が失われ時間が永遠に止まった空想世界への懐かしい感覚…」を昨日書き上げた夜にバスルームの中で、不意に子どもの頃の奇妙な空想がリアルに蘇りました。
展示感想では「生気が感じられない」と書きましたが、そうではなく生気(生命感)は感じられるのですが、何か見えない存在に拘束されて微塵も身動きできないような感じです。
さらにその空想に登場する人物というより人形のような存在は、拘束されているにも関わらず奇妙な笑みのようなものを浮かべています。
しかしその笑みも体と同じように微動だにせず固まったままです。
写真に写る笑みは、それが自然なものであれ作り笑いであれ、見る側は(写真の見方の習慣から)経過する時間の一瞬を切り取ったような印象を受けます。
しかしこの空想には写真のような時間の経過が一切感じられません…
自己分析
奇妙な空想は不自由や閉塞感・絶望感の象徴
成人してからもそれは変わりませんでしたが、子どもの頃の私はよく不自由さ、言葉を変えればあまりに不自由なことばかり続くので、得体のしれない何者かによって自由を奪われている感じがしてなりませんでした。
この奇妙な空想の拘束されている感覚は現実の不自由さを、そして時間が永遠に止まっている感覚は、その不自由さがこの先も変わることなく永遠に続く、したがって未来には希望がないという絶望感や閉塞感を象徴しているように思えました。
同時にサディスティックな快楽も存在
だと致しますと、この辛い空想は本来なら思い出したくもない辛いものとして、無意識に永遠に?封印されてもおかしくないはずです。
ところが冒頭の展示の感想にも書きましたように、私は今でもこの奇妙な空想がもたらす感覚に懐かしさを感じます。
今の私には、子どもの頃の私が、その未来に希望が持てない絶望的な閉塞感をどこかサディスティックに楽しんでいたように思えます。
それが奇妙な笑みに表れているのだと思います。
私見ですが、このサディスティックな快楽は、そうでもしなければ辛くて生きて行けなかった、見方を変えれば絶望しながらも生き続けるための処方箋であったのではないかと思います。
そう思うと必死に生きていた自分が生み出した遺産として、むしろ愛おしささえ感じるのです…
追伸)展示感想の中で触れたR.D.レインの「ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究」も、もう一度読んでみたくなりました。
今ならもっと、この本で描写されている絶望的なまでの心理状態を共感的に理解できるような気がするのです。