10年前に「強迫性人格の予測可能な人生による安心感-自由連想法による自己分析108回目」という自己分析の結果を掲載したことがあります。
この頃は専ら病理的な側面にばかり関心があったためか、分析内容も一人遊びの内容に注目し、それを病的な現れとして解釈していました。
しかし10年経った今、カウンセリングの仕事とは別に写真家としてアーティスト活動を始めたことも影響してか、視野が大きく広がり、当時の分析対象を別の視点から解釈することも可能となりました。
ですから今回は子供の頃の一人遊びについて、別の解釈を加えたいと思います。
再分析を促した、兄弟揃って創作活動へ進んだことへの疑問
今回、同じ出来事を再度自己分析してみたいと思ったきっかけは、私と弟が両親の人生とはまったく異なる創作活動へと関心を寄せ、私はそれをアーティスト活動で、弟は仕事で実現したことでした。
つまり芸術とは無縁の一家で育った人間が、なぜ二人とも創作活動に強く惹かれることになったのかという疑問です。
ただし厳密には親戚に画家の人が一人いて、高校生の頃まで私はその人にかなり依存していましたので、私に関してはその親戚の影響と解釈することは可能です。
しかし弟に関しては、その親戚と特別親しい間柄でもなかったと記憶していますので、この解釈は的を得ていません。
そこで別の要因として思い浮かんだのが子供の頃の一人遊びです。
補足)ただし私の創作活動の領域が絵画と同じ平面作品に部類される写真であり、弟の領域がそれらとは異なる映画という映像の分野であるという違いには、画家の親戚との関係に違いが表れているとも言えます。
創作活動への強い関心ゆえの、独自ルールの一人ゲーム遊び
記憶では、私ほどの頻度ではなかったとはいえ、弟も自分で編み出したルールを使いゲームをして遊んでいました。
画家の親戚との関係とは異なり、この点が兄弟二人の共通点です。
こうした独自のルールを作り、そのルールで一人で遊ぶという行為は、創作活動に強い関心がない限り生まれて来ないような気がします。
なぜなら、そのような行為は自己完結的で誰にも知られることがないため、承認・賞賛欲求の充足を通じた自尊感情の高まりは期待できないからです。
またこの行為は現実逃避目的でもありませんでした。
なぜなら私も弟も、普段は近所の友達と野球(三角ベース)などをして遊んでいたためです。
創造性は孤独な状態でこそ発揮される
また独自ルールの一人ゲーム遊びを、創作活動への強い関心ゆえの行為と考えるもう一つの根拠は、有識者による創造についての考えです。
例えば昨年NHKで放送された「先人たちの底力 知恵泉「宮沢賢治 ”好き”こそ苦しみと生きる道」」に出演した精神科医の斎藤環さんも、創造的な営みは「孤独」な状態でこそ生じる旨のことを仰っていました。
以上が、私たち兄弟が、形は違えど共に創作活動へと向かうこととなった最も大きな要因として、それは独自ルールの一人ゲーム遊びという形で、子供の頃から一人で新しいものを生み出す習慣があったからと考える根拠です。