自己分析の元ととなった本の文章:
月曜日の夜のフットボールの時間、それは楽しみを共有する時間であるどころか、パパの邪魔をしてはいけない時間であった(間主観的アプローチ―コフートの自己心理学を超えて P.129 一部改変)
自由連想法による自己分析の内容(重要な連想のみ):
スポーツ好きだった父親(といっても、ほとんど見るだけ)
自分は興味がないしルールも分からない
父親からすれば「つまらない奴」「面白みのない奴」
対する弟
父親と一緒にテレビでスポーツ観戦を楽しんでいる
そんな弟が羨ましかった
将棋や囲碁でも弟の方が褒められ、私はいつも馬鹿にされた
なぜなら弟の方が強かったから
自分には何の価値もない
他人を喜ばすことなどできない、不快にさせることしかできない役立たずな人間
今では…
誰とでも気軽に話ができる弟(母親は例外)と、人付き合いが苦手な私
ある程度の社会的評価を得た弟と、それには程遠い私
弟から蔑まされても仕方ない
自由連想法による自己分析からの洞察:
「間主観性」という自己心理学の流れを汲む精神分析の本の内容から、子供の頃の父親との辛い記憶がいろいろと回想されました。
父親は実の息子と遊ぶときでも競争心むき出しで負けた私を罵倒してやまない性格でした。そのため私はいつも怒鳴られる恐怖に怯え、怒鳴られた後は惨めな気分を味わったのですが弟は違っていました。
(最近になって知ったのですが)弟は父親から罵倒されるたびに「何とか認めてもらおうと」必死に努力したそうです。その努力があったからこそ弟は自由連想法で回想されたように父親と一緒に楽しい時間を共有することができたのでした。
当時の私はそんなこととは知らず、父親に可愛がられる弟が羨ましいと感じ、同時に不公平感を募らせるばかりでした。
コミュニケーションへの努力の差
先日父親の葬儀で久しぶりに弟と再会したのですが、いままで抱いていた印象と違う弟にびっくりさせられました。
葬儀の間中、弟は親戚の方々を気遣い、話し相手となり…私の目に弟は相手を楽しませる術を心得ているように見えました。対して人付き合いが苦手な私はほとんど話すらできず、ひとり孤独を噛み締めていました…
おそらく弟は私と異なり、子供の頃から他人と積極的にコミュニケーションを取るために必死に努力してきたのだと思います。対して私はそのような弟を羨むばかりか、むしろ蔑んでさえいました。
そのような違いが例えば今の仕事に対する社会的評価の差となって現れている。
映画監督として外国の映画祭に招待され、故郷の新聞にインタビュー記事が載るまでとなった弟と、心理カウンセラーとして無名なばかりか、満足な収入すら得られずいまだに親から仕送りを受けざるを得ない私…
少々飛躍しすぎかもしれませんが、コミュニケーションに対する努力の違いが今こうして大きな差となって表れているような気がしてなりません。
コミュニケーション能力向上 ガイド本リスト