収まらない怒り-ゲシュタルト療法による自己傾聴・治療260回からの続き。
自由連想法による自己分析・自己治療:
自分にいくら非がないと感じることでも相手から非難され続けると、相手の意見を尊重しなければならないような気がしてくる
自分の方が正しいと思っていても、それは仕方がないこと
相手の方が強いのだから、黙って自分は従う(服従する)しかない
それが定め…
どんなに悔しい思いをしたとしても、相手の方が正しいことにしなければならない
子供の頃に、よく親や祖母から言われた言葉
「黙って言うことを聞きなさい」
「子供は親の言うことを黙って聞くものだ」
「子供のくせに生意気を言うな」
子供心になぜ自分が「子供」というだけで、いつも一方的に悪者扱いされるのか、服従させられるのか、まったく理解できなかったし、激しい怒りや悔しさを感じていた
しかし怒りや悔しさを感じたところで、それは何の役にも立たなかった
怒りを口にしたところで「うるさい」と言って叩かれるだけだった
力では敵わないのだから、怒りや悔しさは何の役にも立たない、余計叩かれるだけ
親に叱られるときはいつも頭ごなしに「黙って言うことを聞け、このクソ餓鬼が!」という調子で、最近の子育てで推奨されている「理由を話しながら」叱られた覚えがない
「黙って言うことを聞け!」それでもだめなら叩く、いたって単純明快だ
とにかく親が怒っている、だから自分が悪い、そして叱られ叩かれる
自分が叱られる理由、それは親が怒っているから
ん? だとすると相手が怒っていると「自動的に」それは自分が何か悪いことをしたからということになる
なるほど、それでクライエント*から一方的に理不尽な非難を受け続けるうちに、罪悪感のようなものを感じ始めたのか
*心理カウンセリングとは別の仕事のクライエント。
ときどき「どんなに腹が立っても相手に服従するしかない、自分が譲歩するしかない」と感じるのも、そういうことだったのか
腹を立てても、それは何の役にも立たない、逆に叩かれるだけなのだから
だから対立したときはいつも自分の方から譲歩し、(やってもいないことの)非を認め謝罪し、相手に服従するしかないと感じるのか
自由連想法による自己分析・自己治療からの洞察:
親の支配-服従的な養育態度
自由連想法による自己分析により子供の頃の親の支配-服従的な養育態度が次々と思い出されました。なぜ親がそのような理不尽な叱り方しかできなかったのかは謎ですが…
親の支配-服従的な養育態度から生じた理不尽な罪悪感・譲歩と怒り
そして子供の頃の私は、そのように支配-服従的な親に対して力では敵わないため、どんなに理不尽な要求に感じられたとしても無条件に服従するしかないと諦めていました。
もっともその理不尽さに激しい怒りを感じていたのもまた事実ですが、それを態度に表したところで余計に叩かれるだけと悟っていたため、内心では殺してやりたいほどの激しい怒り、いえ憎しみを感じていてもそれを表に出すことはほとんどありませんでした。
おそらくこのような体験を繰り返し経験することで、相手が腹を立てたときは(理屈の上では相手の方が悪いと思っていても)感情レベルでは「自動的に」自分の方に非があることになるのだから、自分から譲歩し何でも相手の言いなりにならなければならない(服従)と感じられることで、このような信念が徐々に形成されていったものと想像されます。
しかし同時に頭の中ではあくまで「自分は悪くない」と思っていることから、理不尽な要求に服従しなければならないことに対して激しい怒りを感じるのですが、その怒りも過去の「態度に出せば叩かれるだけ」だった体験から表出が抑えられ、その結果相手に対する激しい憎しみが蓄積されていくのだと思われます。
支配的な親の養育態度 心理学的分析本