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傲慢の裏の恐怖心-自由連想による自己分析68回目

自己分析のテーマとした出来事:

タリーズ。テーブルにぶつかり隣の男性のコーヒーを零してしまう(@_@;)
お手拭きがなかったので素早く紙ナプキンを取ってくるが、男性はすでに自分の紙ナプキンで拭いていた。その男性に怒りの表情は見られなかった。
回想:M君の靴下に絵の具の水を零してしまった記憶

自由連想法による自己分析の内容:

本当はどうだったんだろう…
自分で零したことが否認されたのだろうか? それとも実はM君が零したのだろうか?
(目を閉じて当時の場面をイメージ)
その前にコーヒーをこぼした時に頭を過った考えが…
最初、お手拭きをもらいに行こうと思ったが、それでは時間がかかってしまい、その間に男性が自分で拭いてしまう…その前に自分が拭かねばならない それで急いで紙ナプキンを取りに行った
自分が拭きたかった? 願望? 罪悪感からの償いの気持ち?
高校の美術の時間、M君の靴下に絵筆を洗う水を零してしまったときに、M君のせいにして自分は被害者面して怒りを感じながらM君に無言で雑巾を手渡したことへの償いの気持ちが働いた? だから必要以上に自分が拭くことに固執した?
こういう反復の仕方もあるんだ…
(再び目を閉じて当時の場面をイメージ)
彼が椅子を後ろに引いたため私の机との距離が近くなる
何かの拍子でぶつかって絵筆を洗う水がこぼれたらどうしようと不安に思うと同時に、椅子を後ろに引いたM君に対して少し腹を立てる
あっ うっかり絵の具箱で絵筆を洗う缶を押してしまい、汚れた水の入った缶が床に落ちる
しまった、彼にかかったのではないか? いや、こんなに近いんだからかかったに違いない
どうしよう…バレたらどんな目に遭うか分からない 何しろ彼は不良…
いや待てよ、前を向いている彼に、後ろで私が水を零したことが見えるはずがない
だったら彼がこぼしたことにしてしまおう 椅子を後ろに引いてきた彼も悪いんだから
こうして瞬時に、自分に都合の良い「偽りの記憶」が形成される…
今や立派な被害者となった私は、憮然とした態度で彼に雑巾を渡し、無言のうちに床を拭くように命じる
その後、彼が水飲み場で靴下を洗っている光景を見て少し気の毒に思うが、同時に自業自得だから仕方がないとも思う

自由連想法による自己分析からの洞察:

美術の時間の出来事は、その後何年も経ってから、缶を落としたのは実は自分だったのでは?との疑問が生じてきたため、何で勘違いしたのだろう?と長いこと疑問に思ってきました。
今回連想されてきた「偽りの記憶の形成」は、精神分析の本の中で似たような現象に何度も触れてきたため、理屈の上ではあり得ることだと納得はできるのですが…心の底では「記憶が操作されるようなことが本当にあるのか?」と未だ信じ切れません。
また、タリーズでコーヒーを零してしまった後の自分の行動が、美術の時間に犯した過ちへの償いの気持ちから来ているとの解釈も、美術の時間の出来事がこれまで何度も自由連想の中で回想されてきたため徐々に罪悪感が高まっていたことを考えると、あながちあり得ない話ではないとは思うのですが…それでも何か釈然としないものがあります…

傲慢の裏にある恐怖心

しかし、しばらくしてから「たとえ信じられなくても、自分の心の中にないものは自由連想法に現れて来ようがない」ことを思い出し渋々受け入れることにしました。すると次のような洞察がありました。
精神分析的治療の入門書『パーソナリティ障害の診断と治療』の中に、自己愛性人格障害の説明として「どんなに傲慢に見える人の中にも必ずそれとは正反対の恐怖に怯える心がある」という趣旨の記述がありましたが、私の経験もこれと似たものかもしれません。
自分のしたことを記憶ごと相手のしたことに摺り替えてしまう態度は傲慢そのものですが、その傲慢さを生み出したもともとの心理は相手から攻撃されることへの(空想上の)恐怖心です!
恐怖心 克服本リスト

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