隣の席に可愛くて、しかも知的な若い女性の方が座ったなと思っていたら、やがて微かにですが以前はずいぶんと辛い思いをした女性恐怖症的な症状、具体的には隣に座っている女性から観察されているような恐怖を感じ始めました。
そこでこの機会に、久し振りに自由連想法による自己分析をしてみることにしました。
女性恐怖症の症状からの自由連想:
自分が関心を持っている
そして相手にも同じように思って欲しいと願っている
すると自分の欲求がどんどん高まって、抑えきれなくなるような不安を感じる
だからそれを感じ続けるのが怖い
なので気を逸らすと今度は相手が、自分の苦しみを知りながらそれを放置し続ける、まるで弄ばれているように感じ、自分はそのことに対してまったく無力、つまり弄ばれるままになるしかないと感じる
針のむしろに座らされているようで身動きが取れない
これは心の中を覗かれないように、手がかりを与えないための防衛手段(少しでも動けば悟られてしまう)
じらされている、自分の気持ちを知りながら気づかぬフリをして弄んでいる
女性恐怖症の症状の自由連想を元にした自己分析:
本当に恐れていたのは、抑えきれない自分自身の欲求
まず最初に気づいたのは、関心を持っているのは女性ではなく「自分」の方だということです。
相手にも同じように思って欲しいと願っていることに気づいた途端、その欲求がどんどん高まり抑えきれなくなってしまうような不安を感じ始めました。
つまり私が本当に恐れていたのは、抑えきれない自分自身の欲求であったということです。
そしてそれを防ぐためにその恐ろしい欲求を自分から遠ざける、具体的には抑圧して無意識に追いやる必要があったのです。
サトラレの心理が生み出す被害妄想
そして自分の欲求がもたらす苦痛に耐えきれず今回も抑圧すると、その途端に今度は女性から弄ばれているように思えてきましたが、ここでは統合失調症の方がしばしば経験する「サトラレ」と呼ばれる、自分の心をすべて見透かされる不安が働いています。
だからこそ「自分の苦しみを知りながら」と考え、その考えを前提に女性の様子を解釈するために「弄ばれている」という被害妄想的な発想へと至ったのだと思います。
自己愛的な性格構造の人が多用する「理想化-価値下げ」の防衛機制がもたらす無力感
それに対して生じた私の無力感は、自己愛的な性格構造の人に顕著に見られる「理想化-価値下げ」の防衛機制によりもたらされたものと考えられます。
つまり女性の力が理想化されることによって強大化し、それに比較される形で自分の価値が引き下げられて、まったく無力な人間に思えてきたのだと思います。
無力感は子供の頃、母親に対していつも感じていたこと(転移の存在)
なおこの無力感は、子供の頃に母親に対していつも感じていたことでもあります。
ですからここではその女性を、子供の頃に感じた恐ろしい母親と同一視している可能性があります。
固まることによってサトラレの恐怖から身を守っている
続いて生じた身動きが取れなくなったのは、すでに自由連想でも出てきていますように、女性に何も手がかりを与えないことによって、少しでも心を悟られることを防ぐ試みと考えられます。
欲求と恥との葛藤の回避が生み出す不安や恐怖
今回の自由連想法による自己分析から、私の女性恐怖症的な症状は、自分の欲求を満たすことへの恥ずかしさがもたらす葛藤から逃れるために生じた新たな症状と考えられます。
私の女性恐怖症的な症状は神経症水準の病理
またこのことは心の内面の葛藤に耐えきれずにそれを回避した結果、悩みが女性との関係の問題に置き換えられたことを意味しますが、私の場合その苦痛が行動面の障害までには至らず、その代わりに心の中の空想がもたらす苦痛を耐え忍んでいる状態であること、および病識がある(それが現実ではなく症状であることを自覚している)ことから、かなり原始的な防衛機制が見られるとはいえ、これは神経症水準の病理と考えられます。
最後に余談ですが、以前に友人から「(自分の)怒りに気づいた途端に、怒りを抑えられなくなる」という話を聞き、それを当時のスーパーバイザーへ話したところ「それは怒りを抑圧する人によく見られる」と教えていただいても、その意味が分かりませんでした。
なぜなら「自覚できたのに、なぜ逆にコントロールできなくなるのか」不思議でならなかったためです。
ですが今日の自己分析によってスーパーバイザーの話の意味が実感できました。
その後、女性恐怖症の症状について新たな洞察がありましたので、補足記事を投稿しました。
自己愛の延長物の心理も存在-女性恐怖症の自己分析(補足)