自己分析のテーマとした症状:
昨日の自己分析(食事への恐怖から嘔吐恐怖症に-自由連想法による自己分析139回)の成果か、スターバックスで隣に女性が座っていてもさほど緊張や不安を感じない。
ところが安心した途端、情動が襲ってくる。何かに体全体を締め付けられるような圧迫感を感じる。
自由連想法による自己分析の内容(重要な連想のみ):
高校生のときの自殺念慮の記憶
思い出した 突然死にたくなったわけではなかった
その前にも、一度死のうとしていた
でも結局死に切れなかった
帰ると「遅かったわね、心配したのよ」
適当に言い訳した
当時は心配するわけがないと思っていた
今思うと「あっけらかん」とした表情でそう言っていたように感じる
目を背けたい、深刻な話に巻き込まないで、そんな風に思っているように感じられる
「あんまり私を煩わせないで頂戴」と言われている気がする
あんまり幻滅させないで頂戴、あんたはそんな子じゃないでしょ
勇気もないくせに
ごもっとも だから帰ってきた
ちょっと私を困らせたかっただけなんでしょ
面倒な話なんて聞きたくない、止めて頂戴、不愉快だわ
あんまり不機嫌にさせないで頂戴、ただでさえ忙しいのに
これ以上、何が不満だって言うの
何不自由ない暮らしをさせてやってるっていうのに
何がそんなに不満なの
ただでさえ、あんたにはイライラさせられてるのに
少しは弟を見習いなさい、お兄ちゃんなんだから
F君なんかと付き合ってるから、そんな風になるのよ
あーイライラする、あたしが死にたいくらいよ
なんでこんな子産んじゃったのかしら
ついてないったらありゃしない
こんなことなら産むんじゃなかったわ
せっかく痛い思いしたのに
なんだか生きているのが悪いことような気がしてきた
でも死んだら死んだで腹いせのように思われる気がする
たぶん死ぬ気はないのに死んじゃった、というのが一番の選択肢なのだろう、事故か何かで
そういえば自転車に乗ってボーっとして車に轢かれたことがあったが、そういうことだったのかな、死に切れなかったけど
自由連想法による自己分析からの洞察:
相手の迷惑
なんだかとても深刻な自己分析になってしまいましたが、おそらく「辛くても迷惑なだけだろうから辛いと言ってはいけない」そんな風に感じていたのでしょうね。
私は人の手を借りることがとても苦手で、勤めていた頃も一人で仕事を抱えて体調を崩したりしていましたが、これも他人の迷惑を気にしてのことだったのだと思います。頼めばきっと相手を不愉快にさせてしまうと。
そういえば母親自身も、不幸を嘆いてはそれを誤魔化すということをよくする性格なのを思い出しました。ですから私にもそうするように期待していたのでしょう。
もしかしたら私が不幸だと思うことが、母親にとっては子育ての失敗を意味し、それを責められているように感じたため、非難を払いのけるために暗黙の圧力をかけていたのかもしれませんが。
しばらくしてから母親の気持ちとしては、迷惑をかけられるのは父親だけでたくさん、私には楽しい思いだけを与えて欲しい、父親に傷つけられた心を癒して欲しいと感じていたのではと思えてきました。
だとしますと私が苦しみを訴えることは、裏切り行為に等しいことになるはずです。
それにしても生きていても死んでも罪悪感から逃れられないというのは、なかなか辛いものですね(T_T)
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