自己分析を行う前の症状:
怒りの抑圧と迫害空想
スターバックスでいきなりパソコンが強制終了。隣の白人男性がコンセントを抜いたらしい。一言も謝らないことに怒りを覚える。しかし何も言えない…
そのうち迫害的な空想が次々と浮かんでくる…
自由連想法による自己分析(重要な連想のみ):
反射的に怒りを向けられるような気がする
言葉だけじゃなくて同時に叩かれるような気がする、ワンセットで
反射的だから身構える暇もない
防御しようがない 無防備なまま叩かれる
いつ叩かれてもおかしくない緊迫した状況、空気を感じる
だから身構えてないといけない
そうしないと無防備なまま叩かれる
無防備だと余計に痛い
少しでも痛くないようにするためには、常に身構えてないといけない
いつ叩かれても大丈夫なように
常に叩かれることを想定していなければならない
これが迫害空想の正体か…
あらかじめ被害を最小限にとどめるために(心理的に)叩かれるシミュレーションをしてるんだ
予測なしに(無防備で)叩かれないように
ん?ではなぜ自分が怒りを感じると、さらに叩かれると思うのか?
パソコンの強制終了は予期せずして起こった
これが予期せず、したがって何の備えもなしに叩かれる恐怖を再燃させたのではないか?
叩かれる準備を怠っていたからいきなり叩かれた
自分が不注意だからいきなり叩かれた
だから急いで叩かれることに備えなおすために、迫害空想で叩かれるシミュレーションを始めた
自由連想法による自己分析からの洞察:
怒りを表現することで逆に報復される恐怖。しかしその恐怖の底にはさらなる恐怖が潜んでしました。
いつ叩かれるか分からない恐怖
自由連想法に現れた内容がもし現実の体験に根ざしたものであれば、これは児童虐待と呼んで差し支えないのかもしれません。しかし私と母親の記憶は大きく食い違っているため真相は定かではありません。
母親は手を上げたのは数えるほどだと言っていますが…子供の頃の私の記憶には、すぐにカッとなって反射的に叩く父親や母親のイメージしかありません。また嘔吐恐怖症が酷かった時期には、母親が後ろを通るたびに頭を叩かれると思い反射的に身をすくめていたのを覚えています。
しかし客観的な事実はどうあれ、少なくとも心的現実としては常にいつ叩かれるか分からない恐怖に直面していたことだけは事実です。
いつ叩かれるか分からない恐怖に備える迫害空想
そして偶然(おそらく相手の不注意から)生じたパソコンの強制終了という出来事が、何の前触れもなく叩かれる恐怖の再体験として受け止められ、その結果うっかり忘れていた「いきなり叩かれることへの備え」のために、迫害空想によるシミュレーションでいつ叩かれても大丈夫なように準備を始めたのでしょう。
このような無意識の心理は、これまでたびたび自己分析で洞察されてきた自己愛の障害、すなわち相手の態度をすべて自分がしたことへの反応と受け止める心理とどこかつながっているように思えるのですが…それが、一方が他方の防衛という関係なのか、それとも相互依存的な関係なのかは、今のところよく分かりません。
P.S. その後昨日の自己分析で対話した狼の赤ちゃんのことを思い出したときに二つの心理が結びつきました。
一人パブのカウンターでホットミルクを飲みながら周囲を心配そうに見回す狼の赤ちゃんは、おそらくいつ叩かれるか分からない恐怖に怯えていたのでしょう。またそのような恐怖に脚色された感覚からは、自分の振る舞いが見知らぬ相手の機嫌を損ねはしないか(そして叩かれるのではないか)と気が気でなかったに違いありません。
児童虐待防止法ハンドブック他、児童虐待防止・対策・心理学的分析本リスト