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記憶の曖昧さを実感-自由連想法による夢分析・治療 目次:

夢分析の素材とした夢の内容
自由連想法による夢分析・自己治療の記録
自由連想法による夢分析・自己治療からの洞察
記憶の曖昧さを実感…
記憶や自己洞察も創造や再構成の産物の可能性

夢分析の素材とした夢の内容:

いつの間にか、うたた寝してしまったときに見た夢。

夢その1

介護老人保健施設のような場所。車椅子に乗った老人がトイレから出てくる。腰を持ち上げるとズボンにウンチがついている。それを見た介護福祉士が「またそそをして!」と上手く排便できなかったことに対して老人を叱り飛ばす。
このような攻撃的な内容は、ときどき日常生活で不快感を感じたときに相手に対する空想(相手が突然攻撃的になる)として生じることがあります。しかし今は不快感を感じる相手がいるはずのない状態です。
そのため「理由もなく何でこんな攻撃的な夢を見たのだろう?」と不思議に思っていますと、続いて次のような夢(空想?)を見ました。

夢その2

同じく介護老人保健施設の中にある食堂。食堂のスタッフが食べ終えた食事を厨房に下げると、食事を下げられた年配のおじさんが「残すなって言ってるだろ!」と怒鳴りつけスタッフに向かって物を投げつける。

自由連想法による夢分析・自己治療の記録:

最初の夢からの連想
介護福祉士の叱り方が以前に参加したトランスパーソナル心理学(スピリチュアル系の心理学)のセミナーで、帰りに講師や受講生の皆さんと食事をした際、会計時に間違ってお札の変わりにクーポン券か何かを財布から出してしまい、それに対してある受講生の方からまるで子供を叱る母親のような叱られ方をしたときを連想させた
あのときは突然のことだったのでビックリした
それにちょっと間違っただけなのに何もそこまで腹を立てなくてもと思うと同時に子ども扱いされたことに対して腹が立った
しかしその受講生の方が幼稚園(保育園?)の先生をしていることから、ある意味納得もできた
つまりヘマをした私が、心理的には幼稚園児のように思えたのだと
ん?だとするとこの先生は普段から生徒さんがヘマをするたびに厳しく叱り付けていることになるのだが…
ん?いや待てよ…あのときは子供のような叱られ方をしたことに対して怒りを感じる前に恐怖心に支配されていた
まるで母親や父親に叱られた子供のような気分だった
なるほど、だとすると子供のような叱られ方をしたことばかりではなく、私自身も叱られた子供のような気分に実際になっていたということか
だとすると私は子供のような叱られ方をしたからそのような気分になったのだろうか?
それとも他人から厳しく非難されたことで無意識に叱られた子供のような気分に陥り、その防衛的な心理が現実認知を歪め、あたかも実際に子供のような叱られ方をしたとの錯覚(幻想)を生んだのだろうか?
(もう一度当時の出来事をイメージしてみる)
間違ってクーポン券か何かを取り出してしまう
私としては他愛のないミスに照れ笑い(あっ、間違えちゃった)
そこへ烈火のごとく雷が
「何やってるの! そんなこともできないの!」
そんなこともできないの…これはちょっとおかしな日本語だ…
あれ?別の記憶(イメージ?)が…
「そんなこともできないの」と言っている女性の表情が軽蔑しているように見える
高校生のときにいじめや嫌がらせを受けたNさんとイメージがだぶる
何だか「子供のような叱られ方をした」とのイメージを保持するのが難しくなってきた
本当は軽蔑した口調で言われたような気がしてきた
だとすると軽蔑されるよりは子供のような叱られ方をした方が精神的苦痛が少ないということなのだろうか?
たしかに私は自己愛の強い人間だ、その意味で他人から軽蔑されることは辛い
しかしそれは子供のような叱られ方をされるよりも本当にマシなのか
もしかしたらその女性が幼稚園の先生であることを知っていたので、納得できるような理由付けのために「子供のような叱られ方」が選ばれたのか?
こう考えると記憶とは実に当てにならないものだ…今やどれが本当の記憶なのか完全に分からなくなっている…
だとすると大切なのは、それが客観的な事実か否かではなく、それが納得できるか否かのような気がする
ではこの場合の私にとって納得できる事実?とは何だろう?
納得できる事実…それはやはり主観的な事実、いや現実
些細なミスに対する非難に相応しい相手の態度とは?
(しかしこれ以上自由連想が進まないため、やむなく断念…)

自由連想法による夢分析・自己治療からの洞察:

記憶の曖昧さを実感…

自由連想法による夢分析・自己治療から、記憶というものがいかに曖昧で当てにならないものであるのかを思い知らされました。
この記憶の曖昧さ言葉を変えれば記憶の相対性は、最近の脳科学や認知科学・認知心理学などによる研究から徐々に明らかとなってきています。
それらの実験結果によれば、記憶というものは外部環境からの情報や気分などの影響によって簡単に変化してしまう可能性があるようです。
そして今回の記憶の曖昧さを痛感させられた自由連想法による夢分析・自己治療の体験は、それまで知識としてはあってもいまいち実感に乏しかった社会構成主義の「心理カウンセリング(夢分析もまったく同様)の場で起こっているのは事実や真実の発見ではなく、クライエントと心理カウンセラーによる意味の創造や再構成」との考えに共感を覚え、またその社会構成主義の考えの影響を強く受けているナラティブセラピーに再び興味を引かれるきっかけとなりました。
関連ブログ:作成中

記憶や自己洞察も創造や再構成の産物の可能性

これまでの私は自由連想法による夢分析や自己分析によって新たに想起された出来事についてそれを「忘却ないし防衛機制により無意識に抑圧されていたことを思い出した」と感じ、また新たな自己洞察についても同じく無意識に抑圧されていた考えなり感情が意識化されたものと確信していました。
しかしこれらの記憶や自己洞察も上述の社会構成主義の考え方を取り入れれば、それは無意識の中にもともと存在していたとは限らず、夢分析や自己分析のプロセスの中で創造ないしは再構成(新たに意味づけ)された産物である可能性もあります。
したがって社会構成主義の考え方を取り入れることにより、夢分析で行われる作業についても根本的な修正を迫られることになりました。
関連ブログ:作成中
記憶をテーマとした認知心理学・認知科学・脳科学の本
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