要約:「虐待は連鎖する」との見解は今や常識化しつつあるが、私自身の子ども時代を振り返ると、父からは恒常的に暴力を受け、母からは特に小学2年生の時期に生き地獄と言えるような恐怖を味わったにも関わらず、その後の人生に連鎖の痕跡は見当たらない。
「虐待の連鎖」論は今や常識
臨床心理の分野では「虐待の連鎖」「自己愛の連鎖」などというように、親から虐待を受けたり、あるいは自己愛的な性格構造の親に育てられた子どもが、やがて本人が少しも望んでもいないにも関わらず、その親と同じようなことを自分の子どもに対しても行ってしまうことが指摘されています。
さらに前者の「虐待の連鎖」については、NHKの「福祉ネットワーク」や「クローズアップ現代+」のような心理系の時事問題も扱う番組でしばしば取り上げられるためか、この分野に関心がある方にとって、連鎖論は半ば常識化しているような印象を受けます。
しかし最近、この「虐待の連鎖」論では説明がつかない事態を、私自身が経験しました。
目下の立場の人への指導が大の苦手
現在私は「セラピストのための子どもの発達ガイドブック-児童カウンセリングや子育ての悩み相談の参考になる本」の冒頭でも触れましたように、本業の心理カウンセリング業のかたわら、学童保育のスタッフの仕事もしております。
そこではルールを守らせるために子どもたちを注意したり、ときには叱ったりしなければならない場面があるのですが、これらの行為が私はなぜかとても苦手で、いまだに他のスタッフの方のようにはできません。
またこうした私の傾向は今に始まったことではなく、会社員の頃の部下に対しての姿勢や、しばしばリーダー役を務めていた学生時代についてもまったく同様でした。
そこで私はなぜここまで目下の立場にあたる人に対して指導的な態度を取ることが苦手なのか考えていると、やがて幼い頃の両親との間の出来事が次々と思い出されました。
子どもの頃の両親は恐ろしい存在だった
幼い頃の私にとって、両親はとても恐ろしい存在でした。
まず父は少しでも気に入らないことがあると怒りを爆発させ、しばしば暴力を振るような人でした。
しかもその予測が困難であったため、いつも「いつ雷が落ちるか」とビクビクしながら過ごしていました。
また母も、ふだんは父ほど恐ろしい存在ではなくても、特定の状況下では同じほど恐ろしい存在へと豹変しました。
生き地獄だった小学2年生の頃
なかでも一番辛かった時期は小学2年生の頃です。
この頃の私は、父の行為が原因で足の骨に大きなヒビが入り、2ヶ月間ほとんど寝たきりの生活を強いられました。
もっともこのときは奥の祖母の部屋で寝ていたため、父は滅多にその部屋に入ってくることはなく、それゆえ父の心理的・身体的な暴力からは束の間解放されました。
しかしケアをしてくれた母との関係はこれまで以上に密なものとなり、このため今度は母が恐怖の対象となりました。
そのもっとも大きな要因は食事です。
はっきりとした原因は不明ですが、この時期の私は吐き気がしてほとんど食事が食べられませんでした。
ところがこの摂食障害的な症状が母の逆鱗に触れたのか、今度は母から食事のたびに叩かれるようになりました。
このときの恐怖心はよほど凄まじいものだったようで、あるときから母が後ろを通るたびに、叩かれると思って身をすくめる動作が身についてしまったほどでした。
また原因不明の血尿が出たのもこの時期です。
このブログに掲載している自己分析を済ませた今だからこそ、当時の母は極端な心配性で、それゆえ無理矢理にでも食べさせないと私が死んでしまうと本気で信じていたらしいことが理解できます。
しかし当時まだ小学2年生の私にそのような理解はなかったため、このときの母はさらに私に苦痛を与える存在でしかありませんでした。
虐待は連鎖しなかった私の人生
少し昔話が長くなりましたが、これら両親の虐待レベルの行為を受けた私の人生がその後どうなったかといえば、冒頭で触れたように「虐待の連鎖」の理論とはまるで真逆の展開を辿っているようです。
私には子どもがいませんので、厳密には「虐待の連鎖」論で語られる親子関係とはケースが異なります。
しかし学童保育の仕事を始めて1ヶ月経っても、子どもたちに対して暴力はもちろんのこと、声を荒げることもなく、むしろ子どもたちに対して情のようなものが生じ、できるだけこの仕事を続けたいと思い始めている現状を考慮すると、やはり私がこの先かつての親のようになってしまう可能性は非常に低いように思えます。
そこで次のページでは、なぜ私には虐待が連鎖しなかったのか、その要因を私なりに探ってみました。
- 1
- 2