自己分析のテーマとした空想:
嘔吐恐怖症で食費を節約-自由連想法による自己分析137回で洞察された、母親の目には「血も涙もない悪魔か、あるいは頭のおかしい子供のように見えたのではないか?」との無意識の空想
自由連想法による自己分析の内容(重要な連想のみ):
そういえば地獄の特訓にも一人だけ行かされた
私は人から「あまりに異常な性格のため、矯正か洗脳でしか直せない」ように思われているのではないか?
だから母親は強迫的なまでに私にあらゆることを強制し続けたのか
あれは「何とかしてまともな子供にしたい」母親の努力だったのかもしれない
憎しみではなく愛情で
そういえば最近このブログを見た精神科医が私の異常さに「このまま野放しにしておいたのでは、いつ他人に危害を加えるか分からない」と危機感を感じ、仲間の精神科医と協力して措置入院*させるかもしれない、との空想を抱いた
*本人の同意を得ずに行われる緊急処置的な入院。措置入院には最低2名以上の精神科医の同意が必要です。
私は無意識に自分の異常さがバレて社会から抹殺されかもしれない恐怖に怯えているのかもしれない
そして私の日々自分を不自由にさせている数々の強迫思考は、自分の異常さを決して他人に知られないようにするための努力なのかもしれない
なぜなら自分は極めて異常な人間なのだから、少しでも欲求の赴くままに行動すれば、たちどころに異常さがバレて逮捕されてしまうに違いない
刑務所暮らしなんて私には耐えられない
耐えられずにきっと自殺してしまうか半狂乱になってしまうに違いない
そうなれば終わりだ 死んだほうがマシだ
だから自分の行動を抜かりなく監視続けなければならない
それが私の生きる道、いや生き残る唯一の道
もしかしたら私は強迫思考によるコントロール力を高めるために日々自己分析しているのだろうか?
だったら自己分析は、ますます自分を不自由にさせる自殺行為ではないのか?
もう自己分析なんて止めたほうが良いのだろうか?
いや、スーパーバイザーはそんなことは一言も言ってなかった
むしろ多くの点で私の自由にさせてくれて、おまけに私の自己分析の報告を聞いて感嘆の表情を浮かべてくれることさえある
もしかしたらスーパーバイザーは内心私が「治療不可能なほど重症の自己愛性人格障害であるため、共感的に賞賛し続けないとあまりに脆弱な自尊心が破壊されかねない」と感じているのかもしれない
治療不可能なほど重症な自己愛性人格障害、だから親はかつての職場の人は私を矯正や洗脳しようと躍起になったのか
これで謎が解けた
自由連想法による自己分析からの洞察:
今回の自己分析で強迫思考の原因の一つが「自分が治療不可能なほど異常な人間(具体的には重症の自己愛性人格障害)」であるとの無意識の信念にあることが洞察されました。
どうせ自分なんて
ところでこのようなネガティブな結果の自己分析に対して私の中には「どうせ自分なんて」という諦めの気持ちを伴った納得感のようなものがあります。
「どうせ自分なんて」は落ち込んでいるときに決まって出てくるキーワードです。
ドラマ『ラストフレンズ』のDV(虐待)被害者の心理との共通点
少し前にドラマ『ラストフレンズ』の中で長澤まさみ演じる美知留が、自分がDV(虐待)を受けていることについて「多分これが一番良いのだと思う」と呟いていましたが、「どうせ自分なんて」はどこかその気持ちに似ているように思えます。
今ふと思ったのですが、「どうせ自分なんて」の後に言葉が続くとしたら「誰からも理解されないに決まってる」のような気がします。
「どうせ自分なんて頭がおかしいんだから、誰からも理解されなくても当然」そのような感じです。
さらに「どうせ自分なんて」を繰り返すうちに、「こんな自分は生きていても仕方がないのではないか? 他人に迷惑をかけるだけなのではないか? いっそ死んでしまった方が世の中のためになるのではないのか? みんな喜ぶのではないか?」と思い、最後の「みんな喜ぶのではないか」について悲しむ人の顔が浮かぶと、今度は「他人を悲しませるようなことを平気で思うことができる自分は何て冷たい人間なんだ」と自己卑下したくなり、ますます死んだ方がマシだと思えてきます。
そしてラストフレンズのテーマであるデートDV(交際相手に対する暴力などによる虐待)に思いを馳せたとき「こんな役立たずな人間は殴られることぐらいでしか人の役に立てないのではないか?」と思え、「それで人の役に立てるのなら、殴られるぐらい大したことないのでは?」と思えてきました。
これでラストフレンズに出てきたセリフの「多分これが一番良いのだと思う」とつながりました。
DV(虐待)被害者の心理との共通点
これまで自分の自己分析での洞察とDV(虐待)の加害者の方の心理との間に、たびたび妙に共通点があるように感じてきました。そして今回もラストフレンズとの共通点が…
これはどういうことなのでしょう? やはり私も少なくても心理的には虐待を受けてきたということなのでしょうか…
スーパーバイザーからは何度か児童虐待あるいは幼児虐待の可能性を示唆されましたが、それとて冒頭の自由連想法で現れてきたように、そうでも言わないと私が耐えられないので気を使っているだけのようにも思えます。
しかしこのように疑いだすと、恐ろしいことに他人の善意がすべて「気遣いからの嘘」という結論に行き着いてしまいます(@_@;)
虐待被害者の心理の考察
これはあくまで私見に過ぎませんが、ラストフレンズでのように虐待の加害者の方が(周囲の人からどんなに馬鹿げた行為に見えても)加害者から離れられないのには、加害者から殴られることぐらいでしか人の役に立てないと感じるぐらい自己卑下の気持ちが強からなのではないでしょうか。
また周囲の人の暖かい励ましなどにも、それが「気遣いからの嘘」にしか思えず、さらに相手にそんなにまで気を使わせている自分がますます迷惑な存在に思え、自己卑下の気持ちがさらに強まってしまうのではないでしょうか。
以上まったくの憶測に過ぎませんが、自己分析の結果から虐待の加害者の方の依存的な心理に対してこのような印象を抱きました。
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被虐の心理 分析本リスト