NO IMAGE

自己分析のテーマとした症状(感情):

ジョナサンでの隣の親子の会話への不快感

自由連想法による自己分析の内容(重要な連想のみ):

親子(父親と息子)が終始大声で忙しなく話し続けている
イライラ、それと不安
(親子の会話に母親の話が出る)
そうか…これは離婚して母親の側に引き取られた息子が父親に面会を許される日なんだ
そう考えるとお互いの忙しなさが「時間を惜しんでいる」ように思えてくる
きっと一生懸命に楽しい思い出作りに励んでるんだろう
傍から見て不自然に思える強迫的な感じはそのためだろう
ひょっとして楽しい思い出とはお互いに努力して作るものなのかもしれない
そんなこと考えたこともなかった
当然努力もして来なかった
楽しくないのは育った環境や性格、ときには運命のせいだと思っていた
だから休日になると、あんなに街に人が溢れるのか

自由連想法による自己分析からの洞察:

楽しそうな人々への不快感

今まで私は休日になると遊びに出かける人々に対して不快感を感じていました。その理由の一つは例えば新宿ベルクなど普段利用するお店が混んで座れなかったり騒々しかったりすることへの怒り、もう一つはそのような人々に対して「きっと平日は嫌々仕事をして、休日にストレス発散してるんだろうな」などと軽蔑していたからです。
なお、二つ目の理由については「自分は休むことなく毎日自己分析をしたり心理療法の本を読んでいるんだ」という自負が関係していると思います。
また心理学では一般に「楽しい」とは感情の一つであり、感情は自然に心に生じるものであって、思考によって作り出されるものではないとされています*。
この心理的な感情の理解が、人々の様子が日頃のストレスを無理に楽しそうに振舞うことで否認する躁的防衛のように思え、軽蔑する心理の一因にもなっている気がします。
*認知療法や認知行動療法では、感情は無意識的な自動思考から影響を受けると考えられています。

楽しそうな人々への羨望からの怒りと、楽しみを奪った人々への恨み

しかし先ほどの親子の様子からの洞察により、街行く人々へ感じた不快感の一番の理由は、自分にはあまり縁がない「楽しさ」を見せ付けられることへの羨望からの怒りだったのだと思います。
そしてその楽しさを羨むばかりで、自ら作り出すことをせず、ただただ恨みを募らせるだけだったように思えます。また(これは今気づいたのですが)その恨みは、自分から楽しみを奪ったと思っている両親やいじめっ子への恨みの向け換えのようにな気がします。

NO IMAGE
最新情報をチェック!