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キャラとは本来、自分を守りながら社会と上手く関わるために必要な機能

今晩のNHKEテレ「オトナへのトビラTV」のテーマは「どう思う?キャラの使い分け」
月曜日のRの法則「太宰治『人間失格』」で取り上げられていた「ありのままの自分を出せない」と対を成すようなテーマです。

キャラは社会と関わるために必要な機能

ちなみにキャラとは、ユング心理学ではペルソナ(仮面)と呼ばれる、他者に向けたよそ行きの顔を差しますが、これ自体は社会と関わるためにむしろ必要な機能です。
それが害となるのは、自分が何を感じているのか分からなくなってしまうほど過剰となった場合です。

キャラの多くは無意識に使っている

なお、ここでのキャラは意識して使い分けるものだけでなく、無意識に演じてしまうものも含みます。
むしろキャラの大部分は自分では意識していなくても、無意識に使っています。
それは後述しますように、自分の心がむき出しになってしまう危険から身を守るための心の作用によるものです。

キャラをまったく使えないと大変なことになる

キャラを演じすぎて本音をまったく出せないのは、それはそれで大変苦しいものですが、もっと大変なことになるのはキャラをまったく使えない、つまり表裏がまったくなく常に本音でしか生きられない状態です。

これだけ聞くと、とても純粋で素晴らしい人のように思えるかもしれませんが、とんでもありません。
この状態では隠し事ができないため、言わなくても良いような余計な事まで言ってしまいますので人間関係がこじれてしまいますし、また同様の理由から心の中が他人に筒抜けになってしまい秘密を隠し持つことができません。
いわゆる映画「サトラレ」のような状態です。

このような心の状態は、統合失調症をはじめとした精神病水準の病理の現象学的な考察の古典的名著とされるR・D・レインの「引き裂かれた自己」では「ガラスのような心」と形容されています。

それは他人から自分を守る術をまったく持たない、とても脆弱な心です。
この状態では上述のように、常に他人から心をすべて見透かされてしまう不安や恐怖に苛まれるため、人間関係がとても恐ろしいものとなってしまいます。

またその脆弱さゆえに他人や環境からの影響をダイレクトに受けてしまい、それに翻弄されてしまうため、皮肉なことに自分が何を感じているのかが、かえって分からなくなってしまいます。

キャラを適切に使えてこそ、本当の自分を維持できる

以上のようにキャラとは、適度に使われている限りは社会との関わりにおいて自分を守り、それによって心の内側に「本当の自分」を維持して行くためにむしろ欠かせない機能です。

よく精神病水準の方は人から「純粋無垢」な心を持った人のように思われますが、それは恐らくこの方々が秘密を持てないがためにまったく裏表がない印象を与えるからではないかと思われます。
しかしそれは同時にレインが「ガラスのような」と指摘したように、透明で何も存在しない、つまり中身を伴わない心です。
たとえ傍目には羨むほど純真に見えたとしても、ご本人は「空っぽで自分という感覚さえ定かでない」とても恐ろしい世界を生きていらっしゃいます。

隠し事を絶対に許さない子育てや教育は大変有害

最後にレインが描いたような心の状態は、絶対に秘密を持つことを許されないような環境で育つことがその一因となると指摘されています。
これは冒頭で述べましたように、キャラがよそ行きの顔を見せることで本当の自分を「隠し持つ」機能を有しているため、隠し事は絶対に許されない悪いことと教わることで、同じく自分を隠し持つキャラを使うことに対しても罪悪感を抱くようになってしまうからではないかと考えられます。

ですから親御さんには、お子さんに対して隠し事を絶対に許さないのではなく、むしろ秘密は少しくらいなら持って良いのだということを教えていただきたいと思います。

参考文献

R.D.レイン著『ひき裂かれた自己-分裂病と分裂病質の実存的研究』、筑摩書房; 改訳版、2017年

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