遅くなりましたが「古代ギリシアのソフィストの貢献~相対主義的思考が2500年も前から存在していたことに驚き」の続編です。
注)今回の記事はあくまで個人の心理に焦点を当てたもので、本質論や相対論が社会にもたらした効用まで否定するものではありません。
相対主義がモラルの危機に結びついたのは、受け手側の全か無かの極端な思考パターンによるものでは
最初に前回の引用部分を再掲致します。
自然哲学は「アルケー(世界のおおもと)」の定義を通して普遍的な世界説明をめざす営みとして展開しましたが、その営みから明らかになったことは、さまざまな「アルケー」の定義が、実は定義をする人間の観点や関心によって規定されているという事実でした(「西洋の芸術史 文学上演篇1 神々の世界から市民社会の幕開けまで」P.25)。
(中略)
彼ら(ソフィストたち)は、どのような主張にも対立する主張があるという事実に気づき、神々に代表される既存の権威から言論を解き放つ方向をめざしましたが、その一方で、対立する主張のいずれをも弁論の力で真にできると主張することで、言葉など何とでも言えるのだという相対主義と懐疑主義のドグマ化に道を開き、人々のモラルに危機と閉塞状態をもたらすことにもなりました(同書P.26)。
中略以降の「言葉など何とでも言えるのだという相対主義と懐疑主義のドグマ化に道を開き、人々のモラルに危機と閉塞状態をもたらすことにもなった」との部分についてですが、これは受け手側にも大いに問題があると思います。
ソフィストたちが実際にこのように説いていたのでしたら話は別ですが、もしソフィストたち相対主義者が主張する哲学的考察の主観性の話を聞いて「主観に過ぎないのなら、何の意味もない」と考え上述のようなモラルなき状態に陥ってしまったのだとすれば、それは「普遍的なもの(絶対的な真実)でなければそれは何の価値もない」という全か無かの非常に極端な考え方をする人であることを示しており、その思考パターンの方がよほど問題のような気がします。
不完全なものを許容できないことや不安定感、自他の心理的境界の曖昧さなどが、普遍性・完全性・本質を追い求める心理を生む
この受け手側の極端な思考パターンも、ソフィストたち相対主義者の理論を借りれば、その人々の信念や関心を色濃く表していることになり、それは主に次のような心理によってもたらされているのではないかと思われます。
小見出しには「不完全なものを許容できないこと」「不安定感」「自他の心理的境界の曖昧さ」の3つの要因を書きましたが、この3つは密接に関連しています。
ですのでまとめて記述しますと、次のような一連のプロセスで表現することができます。
自他の心理的境界が曖昧(かつ「私」という感覚やアイデンティティもしっかりしていない)
→外界の影響をダイレクトに受けて心が不安定になりがち
→不完全なものを目にすると、心理的境界が曖昧であるため、その影響を受けて自分の心までが同じように不完全なものと感じられ、もとより心が脆弱なためその不快さに耐えられず、その不快な状態から脱するために、決して揺るがされることのない「普遍的で完全なるもの」によって不完全さを克服する衝動に駆られる。
これが私の想定する普遍性や完全性を追い求める心理が生まれるプロセスです。
このように私は普遍性や完全性を追い求める心理には不完全さをカバーするための防衛機制の側面があり、もし自己の状態やアイデンティティの感覚で概ね安定していれば、普遍性や完全性のような究極のものを執拗に追い求める必要はないではないかと考えています。
また本質論についても、本質とは状況が変わっても変化しないもののことを指すと理解しておりますので、その意味で私の中では普遍性と同義の概念です。
以上のように私は、本質を追い求めるのは人間の本能のようには思っておらず、特にそれが極端なものであれば病理的な側面も少なくないと考えております。
また今回の内容から私がポストモダニズムの信奉者の思われたかも知れませんが「すべてのものはその時々の周囲との関係性によって決まるものであり、それ自体には何の意味もない」とするような考えは、それはそれで関係性をあまりに重視し過ぎた極端は発想に思えます。
本質論・相対論、そのいずれにも不完全ながらも一理あるというのが私の考えです。決して二律背反の関係にあるのではないと思っています。