古代ギリシアのソフィストが見出した普遍的とされる論理の主観性
自然哲学は「アルケー(世界のおおもと)」の定義を通して普遍的な世界説明をめざす営みとして展開しましたが、その営みから明らかになったことは、さまざまな「アルケー」の定義が、実は定義をする人間の観点や関心によって規定されているという事実でした(P.25)。
(中略)
彼ら(ソフィストたち)は、どのような主張にも対立する主張があるという事実に気づき、神々に代表される既存の権威から言論を解き放つ方向をめざしましたが、その一方で、対立する主張のいずれをも弁論の力で真にできると主張することで、言葉など何とでも言えるのだという相対主義と懐疑主義のドグマ化に道を開き、人々のモラルに危機と閉塞状態をもたらすことにもなりました(P.26)。
この文章は現在在学中の京都造形芸術大学のウェブスクーリング科目の教科書「西洋の芸術史 文学上演篇1 神々の世界から市民社会の幕開けまで」の中の記述で、この本の中で一番驚いた内容です。
精神分析理論は普遍的とされたフロイトの理論の批判的検証によって発展してきた
この相対主義の考え方、20世紀になってから生まれたものだとばかり思っていました。
と言いますのも例えば精神分析の歴史が、当初はフロイトの理論が普遍性を有する客観的な事実と信じられていたのが、その後に登場した精神分析家たちによってその客観性が批判的に検討され、やがて20世紀の後半になるとソフィストの人々と同じように「分析理論の仮説が最もよく当てはまるのは、その考案者自身」とまで考えられるようになって来たため、このような知見は割と最近になって発見されたものだと思っていたためです。
ですがこうした相対主義的な考え方が生まれてから2500年も経過しているにもかかわらず、その後もフロイトのように普遍的な理論の存在を信じて疑わない人の存在が後を絶たないということは、それだけ普遍的なるものの存在が人々の心を惹きつけて止まないからなのでしょう。
いずれまた別の機会にその理由、というよりもどのような人が普遍的な概念に惹きつけられやすいのかということについて考察する予定です。
引用文献
中村亮二編『芸術教養シリーズ13 神々の世界から市民社会の幕開けまで 西洋の芸術史 文学上演篇I』幻冬舎、2014年
追伸)遅くなりましたが続編を書きました↓
私説:普遍性・完全性・本質を追い求める心理が生まれる要因