以前に「手抜き料理が非難される要因分析」という記事を書きましたが、今回は家事を別の視点から考察します。
目次:
「家事は得意な人が行った方が効率的」という家政夫ナギサさんの考え
「家事は平等に分担すべき」との風潮に疑問を感じ始めた
家事の平等な分担が夫婦間の人間関係を悪化させてしまうケースが生じている
「平等」へのこだわりが損得勘定への過敏性を生み出してしまった
家事分担の平等性は今や「達成すべき目標」になっている
問題は男女の役割分担が「常識」として他の選択肢を奪ってしまっていたこと
「家事は得意な人が行った方が効率的」という家政夫ナギサさんの考え
2ヶ月ほど前ににドラマ『私の家政夫ナギサさん』の特別編を拝見しました。
本編も含めてとても面白いドラマでしたが、特別編での大森南朋さん演じるナギサさんのあるセリフにハッとさせられました。
それは結婚相手の多部未華子さん演じるメイが「これからは私も少しずつ家事ができるようになるから」と申し訳なさそうに話したことに対して、ナギサさんさが「無理なさらないでください。家事は得意な人が行った方が効率的だから今のままでも大丈夫です」と答えたことです。
「家事は平等に分担すべき」との風潮に疑問を感じ始めた
ご承知のように今世間では、共働き世帯が増えているにもかかわらず家事を担うのが依然として女性であることが問題視され、その是正のために家事を平等に分担することが強く推奨されています。
私もこれまでは家事に関しては同様の見解を持っていましたので、それが実現することで社会はより良くなるに違いないと固く信じてきました。
このため例えば家事を分担することに懸念を示す人が、男性だけでなく女性にも少なからずいることを知ると、「そうした旧態依然とした価値観を支持する人がいるから、いつまで経っても世の中は良くならないのだ」などと憤りを感じることもありました。
ところが冒頭のナギサさんの「家事は得意な人が行った方が効率的」との話がとても腑に落ちたため、それからは今の風潮に疑問を感じ始めました。
家事の平等な分担が夫婦間の人間関係を悪化させてしまうケースが生じている
ナギサさんの話が腑に落ちたのは、家事分担を始めた人々の間で、例えば慣れない男性のお粗末に思える家事に対して苛立ちを感じる女性が少なくないなど、夫婦間の人間関係が悪化してしまったケースをよく聞くためです。
ですがこの苛立ちには、前述のナギサさんの考えにある効率性が損なわれてしまっていることも一因ではないかと考えられます。
ちなみにこうした悩みに対する専門家の方の典型的なアドバイスは「決して批判せずに温かく見守る」というものです。
あくまで私見ですが、ここでは家事の平等な分担といういわば至上命令を達成するためには、ときに忍耐も必要であることが示唆されているように思えます。
「平等」へのこだわりが損得勘定への過敏性を生み出してしまった
また家事の平等な分担が夫婦関係の悪化につながってしまったもう1つの要因として、損得勘定に過敏になってしまったこともあるのではないかと考えられます。
具体的には、平等ということを強く意識するあまり、少しでも自分の負担の方が大きいように思えると、不当に損をさせられているように感じられてしまうという心理です。
家事分担の平等性は今や「達成すべき目標」になっている
この家事分担の平等性に関して、興味深い記事を見つけました。
家事分担でケンカになるのは「平等センサー」が発動した証拠ーー100家100通り「家事分担」スタイル | リクナビNEXTジャーナル
この記事では「平等センサー」と称される家事分担の平等性への敏感さと、そこから生じる人間関係の悪化を好意的に捉え、その意識を持てるからこそ平等な家事分担の達成への意欲や行動が促されると考えられているようです。
言葉を変えれば、家事の分担が不平等になっていることに無自覚になってしまっていることこそが問題なのであり、その無自覚さから生み出される一見平穏な家庭環境は、女性の犠牲の上に成り立っている偽りの平和に過ぎないとの認識です。
この例のように、今や家事分担の平等性は、すべての家庭が人間関係や家事の効率性などを多少犠牲にしてでも「達成すべき目標」のようになりつつあるように思えます。
問題は男女の役割分担が「常識」として他の選択肢を奪ってしまっていたこと
ですが世の中には、ドラマ『私の家政夫ナギサさん』のような関係をはじめ、他にも各家庭それぞれに理想の暮らし方というものがあるはずです。
ですから問題は、家事その他の男女の役割分担そのものにあるのではなく、その棲み分けが常識としてあまりに強く作用し、他の選択肢を奪ってしまっていたことにあるのではないかと考えられます。
このことから、もしパートナー双方が納得する家事のあり方が従来型の男女の役割分担になってしまったとしても、その方法でその人々が幸せに暮らしていけるのだとしたら、それで良いと思います。
家事をめぐる現在の風潮は、Wikipediaにあるジェンダーフリーの定義の後半部分の「自らの能力を生かして自由に行動・生活できること」と大きく食い違ってしまっているように思えてなりません。