今回は努力について書かせていただきます。
それが難しい人にとって、努力は「生まれ持った才能」のように感じられる
何か困難なことを達成した人は、それなりに努力したとの自負があるでしょうから、目的の達成に必要なこととして努力の大切さを強調したくなるでしょうし、またそれを他人にも求めたくなるでしょう。
ところがそのようなアドバイスが、努力が難しく何事も長続きしない人の心にまったく響かないことがあります。
それは努力が難しい人にとって、努力とは「生まれ持った才能」のように感じられる場合が多々あるためです。
そうしたケースの場合、いくら努力の大切を説明されても「最初から努力できる才能を持っている人はいいよな」と不公平感が募るばかりです。
こうした思いの人にとって、努力できる人の言葉は、上から目線の言葉でしかないのです。
これが努力できる人から見れば、そうでない人が最初から努力する気がないように見える理由でもあります。
こうした努力に関する差は、次に述べる自己評価の差によるものが大きいと考えられます。
自己評価の違いが、努力できる能力の差となって現れる
自己評価とは自分の様々な能力に対する自分自身の評価のことを指しますが、これが高い人は自分の能力に自信を持っているため、多くのことに対して「自分なら出来そう」という予感を感じることができます。
そのため、その予感にも助けられて真剣に取り組む、つまり努力することが容易となります。
努力し続けければ、いつの日かその努力が報われる時が来るに違いないと信じることができるからこそ、人は努力し続けることができるのです。
それに対して自己評価が低い人の場合は、多くのことに対して「自分には無理」という予感が生じてしまいがちです。
努力しても無駄だと思うことに対して、人は努力し続けることはできません。
無理にそうしようと思っても「自分なら出来そう」と思っている人と同等のモチベーションは生じないため、総じて嫌々ながらという感じになってしまいます。
努力が難しい人の多くは、最初から努力する気がないのではありません。
自分では精一杯努力しているつもり、つまり決して怠けているわけではないはずなのに、なぜか継続できない、そうしたことを繰り返しているうちにまるで「生まれ持った才能」であるかのように思えてくるのではないかと考えられます。
自己評価の違いは、幼少期の親との関係の中での承認欲求の満たされ方の違いによるものと考えられている
こうした自己評価の大きな違いを生む要因は、精神分析的な発達心理学では、生まれ持った気質に加えて、幼少期からの親との関係の中での承認欲求の満たされ方の違いと考えられているようです。
そのこともあって、子育てにおいても社員教育においても褒めることが推奨されるようになって来ているのではないかと考えられます。
後者の場合、幼少期の不足分を後から企業が補っているとも考えられるのです。
追伸)今回の記事は主に、やりたいことに対する努力について述べたものです。
気が進まないことに対して努力し続けることは、誰にとっても困難が伴うためです。