数日前にTwitterで、冷凍餃子が手抜き料理であると非難されがちであることが話題になっているのを知りました。
そこでざっとツイートに目を通しながら私が感じたのは、日本では家事(労働)の中でも、なぜ料理だけが手間を省くと「手抜き」と厳しく非難されるのだろうということです。
目次:
家事労働の簡単な歴史
料理だけが手間を省くと「手抜き」と非難される
「手料理=愛情の深さの証し」という投影の心理
好感度を大きく左右することの多い料理のスキル
料理が特別視される確かな要因は不明
家事労働の簡単な歴史
日本では今から100年ほど前に、専業主婦という女性の性役割が誕生したと考えられています。
しかし当時は家事のほとんど全てを手作業で行わなければならず、それは大変な重労働でした。
このため家電と称される電化製品などが、家事労働の負担軽減を目的として次々と開発され急速に普及して行きました。
また今日では、家事そのものを外部の専門家に任せる代行サービスも次々と生まれています。
料理だけが手間を省くと「手抜き」と非難される
このように日本の家事労働は、快適な生活を送るために必要なことではあっても、できるだけその手間を省く方向へと変化してきました。
言葉を変えれば、しなければならない家事という行為を、できるだけしなくても済む方向へと向かってきたと言えます。
このため今日では、例えば衣類を手洗いせずに全自動洗濯機で洗ったからといって、その行為を「手抜き」と非難されることは滅多にありません。
例外的にデリケートな衣類だけは手洗いが推奨されていますが、それはあくまで衣類を傷めないためであり、したがって手抜きとは関係のない理由からです。
ところが料理だけは、冷凍食品やスーパーの惣菜などを利用することに対して「手抜き」と感じる感覚が、今でも人々の間に根強く残っているようです。
しかもこの感覚がネガティブに捉えられるのは、その担い手が女性に限ってのことです。
これは前述の専業主婦という性役割からもたらされる「家事は女性の仕事」という価値観の影響と考えられます。
ちなみに手抜きとは、しなければならない手続きを省いてしまうことを意味します。
つまり家事の中でもなぜか料理だけは「手料理」と称されるように、手間を省く便利な商品を極力利用せずに、手作りすることが期待されているのです。
それに対して例えば手掃除という言い回しは存在しません。
「手料理=愛情の深さの証し」という投影の心理
このように料理だけに手作業が要求されるのは、当初はその作業に対して愛情が投影されているためではないかと考えました。
つまり料理の手間を惜しまないのは、それだけ家族のことを大切に思っている証しという解釈の存在です。
確かによほど料理が好きな方でない限り、手料理を作ってあげたいと思うのは特別な感情を抱いている人に対してでしょう。
しかしこの点は、他の家事についても当てはまるように思えます。
好感度を大きく左右することの多い料理のスキル
また別の観点として、その人の評価との関連性の高さについても、料理は他の家事とは大きく異なっています。
料理が得意であることがその人の好感度を大幅に高めることが多いのに対して、他の家事のスキルにはそこまでのリアクションは生じないためです。
料理が特別視される確かな要因は不明
以上のように料理には、得意であることが好感度を高める反面、その担い手が母親である場合は少しの手抜きも許されない厳しい状況が存在するというように、家事の中でもひときわ感情を揺さぶる傾向があるようです。
その要因として当初は生存との結びつきを想定しました。
マズローの欲求段階説に当てはめると、掃除や洗濯は快適な生活を送るために不可欠なもので下から2番目の安全欲求の充足に該当するのに対して、料理は生存自体を左右する生理的欲求と関わりがあるためです。
しかしマズローの見解では、最下部に位置する根元的な欲求ほどその欲求が強くなる訳ではなく、むしろより上位の欲求が満たされている時には弱まると想定されています。
したがってマズローの欲求段階説では、家事の中でも料理がひときわ感情を揺さぶる傾向があることを上手く説明することができませんでした。
以上のように、家事の中でも料理が特別視される確かな要因は不明という問題提起のみの記事となってしまいましたが、それでも何かの参考になれば幸いです。