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被害者意識が強く、罪悪感が希薄で、不幸を嘆く「悲劇の人」~自己愛講座6

罪に意識が希薄で、責任逃れに終始する日本人の姿

最初に東京新聞の次のウェブページをご覧いただけますでしょうか。
川内再稼働 知事が同意 避難・設備・火山 不安残し

昨晩、Facebookの個人ページで、この記事に対して以下のようにコメントしました。

本文より:
伊藤知事は規制委のことを「産業技術の最高の人たち」と表現し、事故が起きた場合の最終的な責任は「国にある」とした上で同意に踏み切った。

本来責任あるべるはずの人が、責任を取らされないことを条件に決定を下す。
こんなことが堂々とまかり通るとは驚きです…

日本は不祥事を起こした時は大騒ぎして議員を辞職へと追い込みますが、私はこの知事のような態度の方が、よほど問題だと思います。
なぜなら自らの意思決定の責任を取れない人は、最初から組織のリーダーとしての適性を欠いているためです。

これは自治体のトップである伊藤氏の責任回避の姿勢を批判したものですが、翌日、作家の村上春樹氏の次のような批判を目にしました。
Peace Philosophy Centre: 村上春樹、毎日新聞によるインタビューで日本の「自己責任の回避」傾向へ苦言(海外メディアが注目!)

ここでは戦争や原発事故に対して、多くの日本人が軍部や地震・津波などに責任を押し付け、自分たちはその被害者に過ぎないと考えていることが批判の的となっています。

さらに村上氏は言及していませんが、日本ではその軍部に対しても「目に見えない空気の同調圧力によって誰も戦争に反対できないまま戦争に突入して行った」などと、「軍部=空気の被害者」との論調さえみられます。

それだけではありません。例えば犯罪報道においても「何が被告を犯罪へと追いつめて行ったのか?」などと、あたかも「止むに止まれぬ事情によって犯したくもない罪を犯させられた被害者」との論調がマスメディアでしばしば行われています。
また冒頭の東京新聞の記事でも、安全性が十分に確認されないまま再稼働が行われようとしていること対しては厳しい批判がなされていますが、知事の責任回避の態度そのものに対する批判は直接行われていません。

このように日本では「誰もが何らかの意味で被害者」という、徹底して罪を逃れ被害者の立場に身を置く価値観が至るところに浸透しています。

※ただし村上氏も指摘するように、例外として、誰もが被害者では済まされなくなった時にはスケープゴートの心理が働き、特定の人やものに責任をすべて負わせることでことを丸く収め、自分達は罪を逃れることも起こり得ます。

コフート曰く自己愛的な人は、被害者意識が強く罪悪感が希薄で不幸を嘆く「悲劇の人」

この責任逃れに終始する日本人の姿も、実は私の専門の病理的な自己愛と密接に関連しています。

たびたび引き合いに出している自己心理学の創設者コフートは、自己愛的な人をフロイトの活躍していた時代の人と比較して前者を「悲劇の人」、後者を「罪悪感の人」と形容しました。
フロイトが治療に携わった100年前のウィーンでは、罪の意識が強すぎるために苦しむ人、したがって自責の念が強い人が主な顧客であったのに対して、その50年以上後にアメリカで治療に当たったコフートの主要な顧客は罪の意識が希薄で、その反対に他者から嫌な目に遭わされているという被害者意識が非常に強い人というのが彼の見解です。

ここでの「悲劇の人」には、自分は何も悪くない、悪いのはむしろ他人で、自分はいつもその被害にばかり遭わされる可哀想な人と、人生の不幸を嘆く姿勢が込められています。

このようにコフートの理論はアメリカのクライエントの考察から生まれたもので、決して日本の研究から生まれたものではありませんが、今日ではむしろアメリカ人以上に日本人の心性にとてもマッチした理論との評価を得ています。
私がコフートの理論を多用するのも、このような理由からです。

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