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谷原章介さんの児童虐待の発言への批判に見られる「理想化ー脱価値化」の心理-自己愛講座51

要約:「めざまし8」で谷原章介さんが児童虐待の存在を断定した発言に対して「言って欲しくなかった」旨の批判が出た背景には「理想化-脱価値化」の防衛機制の働きが存在していたのではないかと考えられる。

コメントの内容の事実関係以外の部分に批判が集中している

今回の記事は「谷原章介さんの「めざまし8」での児童虐待に関する発言の真意を推測」の続編として、視聴者やネットユーザーの批判の内容に着目します。

なかでも興味深いのは、批判の矛先がコメントで示された「連れ子でも実子でも虐待は起きる」という見解の事実関係よりも、次のような事柄だったことです。

・そのことをメディアで発言したことや、断定的な言い回し
・言うべきことが別にあるはず
・谷原さんには言って欲しくなかった

このなかでも今回は自己愛講座として三番目の批判のタイプを取り上げます。

谷原さんへの批判には「理想化-脱価値化」の防衛機制が関係している

前述の「谷原さんには言って欲しくなかった」旨の批判は、エキサイトニュースでは「妻の連れ子を含め、6人の子どもを育てている、子煩悩パパとしてのイメージもある谷原なだけに、この断言にはガッカリした人が多くいたようだ」と解釈されています。

児童虐待は現実に生じているにもかかわらず、それを言葉にしたことで批判を受けてしまうのには、これまで「君たちはどう生きるか」のブームについて考察した記事自己愛講座15で指摘した「理想化-価値下げ」の防衛機制の働きが関係していると考えられます。

※なお世間では「理想化-価値下げ」よりも「理想化-脱価値化」という用語が使われているようですので、今回は脱価値化の方で説明いたします。

具体的には今回の谷原さんのケースでは、連れ子を含めて6人もの子どもを育てていることが、そのようなことができるのはよほど素晴らしい人だからに違いないとの考えから、過度に理想的な父親のイメージを生み出し、そのイメージが谷原さんに投影される。

そしてその理想的な父親像としての谷原さんの口から、虐待というイメージにあまりにそぐわない言葉が出たことで期待をひどく裏切られ、その心の深い傷つきに対する怒りが今回の「言って欲しくなかった」旨の批判につながったのではないかと考えられます。

肯定的なイメージの著名人には常に過剰な期待が寄せられ、かつ脱価値化される

今回の谷原さんのケースのように、ある点において肯定的なイメージを有し、なおかつマスメディアを通して不特定多数の人々に知られる著名人に対しては、常に過剰な期待が寄せられがちです。
このため少しでもその期待にそぐわない言動をすると、たちまちバッシングされる危険性を秘めています。

これは自己心理学の理論を援用すれば、期待を寄せる人にとって相手は、物理的には他人であっても、心情的には自分の心の一部として機能しており、それゆえ自分のために常に理想的な振る舞いを続けるべき存在と目されているためです。

このように過度に理想化されている人は、憧れの存在であると同時に、常に期待通りに振る舞うことを強制される僕(しもべ)のような立場に置かれているともいえます。
また脱価値化や価値下げという言い回しは、この僕のような立場を担わされることを意味してもいます。

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