傾聴とオウム返しとの違い:
情動調律は形式を共有する模倣とは違い、相手の行動の背後にある主観的状態(情動)に焦点を合わせます。
(コフート理論とその周辺―自己心理学をめぐって P.163 一部改変)
この文章は精神分析医の丸田俊彦氏による、スターンの乳幼児精神医学の著書『乳児の対人世界』の解説の一部ですが、心理カウンセリングにおいてもっとも多用される心理療法の一つである傾聴と、その傾聴の誤った使い方であるオウム返しとの違いにもそのまま当てはまるように思えます。
この文章は次のように言い換えることが可能です。
傾聴とは言葉を共有する模倣(オウム返し)とは違い、クライエントの話の内容(言葉)の背後にある感情(気持ち)に焦点を合わせます。
オウム返しのように傾聴されることで「理解された」と感じる-クライエント中心療法の信念:
日常会話を振り返ってみますと私たちは相手に話を聞いていることを示すために相槌を打ったり短い単語を繰り返すことはあっても、相手の方の話を「てにをは」まで正確に繰り返したりすることはまずありません。
なぜならそれは単なる真似(模倣)であり、そんなことをすると「この人、大丈夫?」と不審に思われるのが関の山だからです。
ところが傾聴のセミナーなどに出席しますと、しばしば次のような説明を受けます。
・クライエントは相手に話を理解してもらうことで癒される。
・そしてクライエントは自分の言葉を(何ら装飾を加えることなく)正確に繰り返してもらうことで「初めて」心の底から理解されたと感じる。
この文脈ではクライエントは心理カウンセラーからオウム返ししてもらうことで初めて自分の話を理解してもらえたと感じることになり、普段私たちは相手からオウム返ししてもらえないことから生じる、おびただしい数の「理解してもらえない」体験を繰り返し経験していることになります。
本当にそうなのでしょうか?
オウム返しのような傾聴への違和感:
ここで一つ面白いエピソードがあります。それは傾聴のスキルを学ぶあるセミナーでの出来事です。
そのセミナーには、傾聴については多少知識はあっても傾聴によるカウンセリングを受けた経験はないと想像されるカウンセラー志望の方々が出席されていました。
そしてこのセミナーは実践的なものでしたので、初日から傾聴の実習(練習)が行われました。具体的には次のような指示のもとに傾聴の練習が行われました。
・クライエント役の話を「そのまま」繰り返して伝え返す。
・決して質問をしてはいけない。
・クライエント役が話に詰まっても、その沈黙を尊重し温かく見守ること。つまり決して助け舟を出してはいけない。
傾聴についてご存じない方には、ずいぶんと奇妙なルールばかりに思えるのではないでしょうか?
しかしカウンセリング(特にロジャーズのクライエント中心療法)の世界では、これらのルールが無条件に正しいこととして信じられている傾向があります。
では実際に初めて他人から(オウム返しのように)傾聴される体験をされた方々の印象は、どのようなものだったのでしょう?
ほとんどの方が口々におっしゃっていたのは次のような感想でした。
・とても辛かった。特に話すことがなくなったときの沈黙に耐え切れなかった。
・質問してくれた方が遥かに話しやすかった。
(二つ目の感想は、禁止されていたにもかかわらず普段の癖が出て、つい質問してしまった方が多くいらっしゃったからだと思われます)
※このときの皆さんの感想は印象的な出来事として今でも脳裏に焼き付いています。
カウンセリングを希望されるクライエントが傾聴について事前に学ばれてからカウンセリングに訪れるとは思えませんので、これらの感想は実際のクライエントの印象に近いものと考えられます。
したがって(オウム返しのような)傾聴はクライエントに対して、カウンセリング(特にロジャーズのクライエント中心療法)の世界で信じられているような「心の底から理解された」と感じられる体験をもたらすものとは限らず*、むしろ違和感を感じるものであり非共感的、悪くすれば外傷的に働くケースすらあることが分かります。
*間主観性心理学(対人関係における相互依存性を重視した自己心理学)の理論では、自己愛障害や統合失調症・境界性パーソナリティ障害など重症の精神疾患のクライエントには、形式的にはオウム返しに近い忠実な伝え返しが有効とされています。
しかしその場合でも、気持ちに共感した上でのオウム返し的な傾聴でなければ非共感的な態度として激しい怒りを買うことが往々にしてあります。
私自身、ゲシュタルト療法という心理療法を用いて自分自身の自己愛的な心の領域に傾聴(自己傾聴)を試みた際に、気持ちに共感し損ねたオウム返し的な傾聴をして何度も罵倒された経験があります^^;
関連ブログ:ゲシュタルト療法によるインナーチャイルドの癒し・自己分析・治療
偽善的な態度と受け取られかねない「形だけの」沈黙の尊重:
特に有害だと考えられるのが、セミナーの参加者の方の多くが感じた苦痛を強いる「形だけの」沈黙の尊重です。
もし私がクライエントでしたら、終始笑みを絶やすことなく「あなたのことを尊重してますよ」というようなメッセージを送りながらその実、話すことがなくなり困り果てても無反応、あるいは「とても困っていらっしゃるんですね」と見れば誰でも分かるような当たり前のことをもっともらしく情感を込めて話すダブルバインド(同時に矛盾したメッセージを相手に送ること)的なカウンセラーの態度は偽善的で怒りさえ覚えると思います。
※ここでの怒りは、間主観性心理学の理論を援用すれば(クライエントから見て)沈黙による苦痛の原因の一端が明らかにカウンセラーにあるのに、そのことを認めようとしないカウンセラーのアンフェアな態度(ひいては治療構造)に対する怒りです。
かなり前置きが長くなってしまいましたが、オウム返しのように機械的に相手の言葉を繰り返すような傾聴は単なる真似(模倣)でしかなく、そのような行為から人は「心の底から理解された」と感じたりはしないものと思われます。
傾聴で大切なのは感情(気持ち)の伝え返し:
大切なのは言葉の背後にある感情、つまりクライエントが「どのような気持ちから」そのようにおっしゃっているのかにあるように思えます。
気持ちを理解できた上での伝え返しであれば、それがたとえクライエントが一度も使っていない言葉であっても共感的に、悪くても非共感的な態度として伝わることはないはずです。
非共感的態度を助長するオウム返しのような傾聴:
さらにオウム返しのような傾聴には次のような問題点もあります。
クライエントの言葉に囚われ、態度や気持ちへの注意力が妨げられる
クライエントの言葉を正確にオウム返しするためには、クライエントの言葉に全神経を集中して一字一句聞き逃さないように努めなければなりません。
実際に試していただくとお分かりいただけますが、このような傾聴の仕方は大変な集中力を要する作業のため、クライエントの態度や気持ちへの注意力が妨げられることになります。
そしてこのような言葉にだけ注意を向け気持ちを一切顧みないカウンセラーの態度は、クライエントには当然ながら「自分の気持ちを理解しようともしてくれない」非共感的な態度と映ります。
自分が上手く傾聴できているかに囚われ、クライエントへの注意力が妨げられる
またこれはオウム返し的な傾聴に限ったことではありませんが、技法のルールにがんじがらめに縛られた心理療法のスタイルはカウンセラーの心に「自分はルールどおりに上手く傾聴できているだろうか?」という不安を常に生じさせ、その結果注意が自分自身に向けられがちになります。
このようなカウンセラーの態度も、クライエントにはやはり「自分に関心を払ってくれない」非共感的な態度と映ります。
クライエント中心療法の理論の極端な純化としてのオウム返し的な傾聴:
最後にこれはまったくの私見ですが、オウム返しのような傾聴に対する治療効果の確信は、クライエント中心療法の治療プロセスへの誤解から生じているように思えます。
クライエント中心療法では、クライエントの自己治癒力を最大限に尊重し、そのためクライエントの自己治癒力を妨げないようにカウンセラーの介入を極力控えることを目標とし、そのための治療技法が傾聴という心理療法であると考えられます。
私見では、クライエント中心療法のこの考えの極端な純化により生まれたのがオウム返し的な傾聴のように思えます。
クライエントの自己治癒力を極力妨げないようにカウンセラーはオウム返しのようにただ言葉を繰り返す。そうすることでクライエントの自己治癒力が最大限に引き出される。
このような信念がオウム返し的な傾聴にはあるような気がしてなりません。
この信念からすればオウム返し的な傾聴が沈黙を尊重するのも理解できます。
目の前のクライエントがたとえどんなに苦痛に満ちた表情を浮かべていたとしても、ただ黙って温かく見守ってさえいればクライエントの心の中に宿る無限大の自己治癒力が「必ず」働き、自らの力で立ち直っていかれる…
沈黙をカウンセラーの方から破る行為は、クライエントの自己治癒力を妨げるものでしかないのです…
乱暴な言い方をすれば「私はあなたの自己治癒力を最大限に尊重します。ですから私は何もしません、たとえあなたがどんなに苦しまれているとしても…治すのはあなたです。私ではありません。」これがオウム返し的な傾聴の背後で働く信念のように思えます。
しかし私たちには本当にそのような無限大の自己治癒力が備わっているのでしょうか? 本当に私たちに不可能なことなどないのでしょうか?
このようなオウム返し的な傾聴の背後で働ていると考えられる信念は、人間の自己治癒力を理想化(過大評価)し過ぎており、あまりに素朴な考えのように思えます。
実は以前の私がまさにこのような心理状態でした。傾聴を学び始めた頃の私のブログを読み返してみますと、傾聴や自己治癒力に対する過度の理想化の跡が見られます。まったくお恥ずかしい限りです。