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カリスマ性は個人の能力のみならず「理想化-価値下げ」の防衛機制がもたらす集団現象の一つでもある~自己愛講座15

以前に「「理想化-価値下げ」の防衛機制が自己愛的な症状を生み出す~自己愛講座8」で「理想化-価値下げ」の防衛機制の様々な影響について述べましたが、今回はこの防衛機制が集団(社会)において現れるケースの一つとしてカリスマ性について書かせていただきます。

カリスマとは

まずカリスマとはWikiによれば次のような定義されています。

超人間的・非日常的な、資質・能力。英雄・預言者・教祖などに見られる、民衆をひきつけ心酔させる力。

カリスマは一般的にカリスマ性と称される、人を魅了する対人的なスキルと思われている

上述のカリスマの定義から、カリスマとは生まれ持った資質(素質)であれ、後から努力して身につけたものであれ、自分を魅力的に見せるコミュニケーションスキルのようなものと考えられているようです。
そのためでしょうか、カリスマで検索しようとすると絞り込み候補に「カリスマ性のある人」「カリスマ性 身につける」などと表示されるのは。

確かに例えば社交的な人はそうではない人よりも好感をもたれやすい傾向はあるでしょうから、人を惹きつける力に個人差があることは事実でしょう。
(ただし対人恐怖症的な人にとって、そうした人の態度は心へ侵入されるかのような恐怖をもたらします)
しかしこれらのカリスマ性に関する事柄には「惹きつけられる人」のことが一つも出て来ません。
ですからこのカリスマ性には、それを身につけることで誰をも魅了する力を得ることができるとの前提があるように思えます。

ですがもし本当にそのような対人スキルがあれば簡単に人を操ることができはずですが、実際には幸いそのような事態にはなっていません。
これはカリスマ性のある人にたちまち魅せられる人もいれば、それほど魅力を感じない人もいる、つまり力の受け手側にも個人差があるからではないかと思われます。

すなわちカリスマ性とは個々人の心理的な特性に加えて、その相互作用によって生じる集団的な現象であり、そこには自己愛的な性格構造の人々が多用する「理想化-価値下げ」の防衛機制が働いている、というのがタイトルの意味するところです。

なおカリスマ性を有する人の特徴については、すでに巷に多数の情報が存在しておりますし、私自身あまり関心があることではなく、それゆえ詳しくもありませんので、今回の記事ではその力の「受け手側」の人の考察に限らせていただきます。

カリスマ性を有する人への無条件の信頼には「理想化」の防衛機制が働いている

人がある人にカリスマ性を感じている時に典型的に発する言葉は「この人の言うことなら間違いない」というものです。
ですが実際には、この世に完璧な人間は恐らくいないでしょうから、このように無条件に人を信頼するとき、その相手はかなりの程度、理想化されていると考えられます。
この状態は『パーソナリティ障害の診断と治療』では「勝手に黄金の玉座に座らされ、ある時突然その椅子から引き摺り下ろされる」と表現されています。

※後半の「引き摺り下ろされる」の部分は「価値下げ」の状態を表しています。後ほど詳しく説明いたします。

カリスマ性を有する人に理想化が生じるプロセス

ではなぜ、このような極端なまでの理想化が生じるのでしょうか。
これにはその人が主体性が乏しい場合と抑うつ状態にある時との2つケースが考えられます。

主体性の欠如

まず前者のケースの人の場合、物事を自分で考え判断あるいは決断することに対して苦痛を感じるため、それを他人に委ねる傾向があります。
そしてその委ねる相手が頼りないようでは、今度はそのことへの不安という新たな精神的苦痛が生じてしまいます。
そのためすべてを委ねても安心と思えるほど頼りがいのある人であって欲しいとの願望が生じ、その願望が投影される形で極端な理想化が生じるのではないかと考えられます。

またこうした人は、自分で楽しみを見つけることも難しいため、他人に楽しい思いをさせてもらえることを期待するという傾向も併せ持っています

抑うつ状態

次に後者の抑うつ状態のケースですが、これは自己愛的な性格構造の人に限った話ではありません。
抑うつ状態に陥った時、人は誰でも普段のようには自分の判断に自信を持てなくなり非常に心細い状態となり、その結果誰かの助けを借りたくなります。
そうして一時的に主体性が乏しい人と同じようなプロセスを辿ると考えられます。
対して主体性が乏しい人は、判断の拠りどころとなる人を常に必要としていますので、理想化の防衛機制はより恒常的に働くことになります。

こうしてカリスマ性を有する人と思われている人の個人的な属性とは別に、その現象を後押しする要因が受け手側にも存在するのではないかと私は考えています。

カリスマ性を有する人への理想化は長続きしない

続いて前述の「椅子から引き摺り下ろされる」という「価値下げ」の説明です。

これまでの記述のように、理想化の防衛機制が働いている人の期待度は相当なものです。
よく「プレッシャーに押し潰されそうになる」という話を聞きますが、これはその人自身の過剰反応だけでなく、期待を寄せる人々の過剰な要求の影響も無視できません。
特に主体性が乏しい人の期待は、他人事ではなく自分自身のために頑張ってもらわなければならないというものですから、そのプレッシャーは相当なものです。

こうしてカリスマ性を有していると思われ人々から理想視されていた人は、最初のうちは何をしても「素晴らしい、素晴らしい」と賞賛されるので気分が良くても、やがてその理想視が徐々に重荷となり始め、最後には耐え難いほどのプレッシャーとなってしまいます。
そうなれば普段のパフォーマンスを発揮できるはずもなく、そうして期待外れな一面を見せざるを得なくなって行きます。

その結果起きるのが、これまでその人を持ち上げていた人からの、今度は期待を裏切られたことへの怒りから生じる、容赦のないこき下ろしです。
ここに至って以前は完璧な人間とまで理想化されていた同じ人の評価が、今では何の価値もない人間へと一変してしまいます。

その典型例が最近はあまり見かけなくなりましたが、期待外れの成績に終わり帰国したオリンピック選手へ卵などを投げつける行為です。

またこの「理想化」から「価値下げ」への急激な変化は、上述の期待外れ以外のことでも起こり得ます。
例えばブラック企業体質が明るみになり激しい非難に晒されたユニクロの柳井さんや和民の渡邉さんが、それ以前は経営の神様のように祀り上げられていたことを忘れてはなりません。

対等な関係が存在しない「理想化-価値下げ」の防衛機制の働く世界

では同じ人の評価がなぜそこまで極端に変化してしまうのか。
それは「理想化-価値下げ」の防衛機制の働く世界には、対等な関係というものが存在しないため、少しの差にも敏感に反応して、一方がたちまち理想化され、他方が価値下げされてしまうためです。

その傾向に気づかなければ延々に続く理想の人探し

最後に「理想化-価値下げ」の防衛機制は、自分のその傾向に気づかなければ延々と繰り返されます。
特に主体性が乏しい人には、自分を望ましい方向へと導いてくれる理想的な人の存在が欠かせませんので、誰かに失望する度にすぐに別の人に「この人こそ自分が探し求めていた理想の人」と前の人以上の期待を寄せ、そしてその人にも遠からず期待を裏切られるというパターンを延々と繰り返すことになります。
さらにそうした裏切られ体験が際限なく続くことで、他人のみならず社会全体への不信感や恨み、そして被害感情を募らせていきます。

こうした人が負のスパイラルから抜け出す道は、他人に幸せにしてもらうことを当然のごとく期待するのではなく、自分自身でその幸せを掴み取る努力をする方向へと精神的なエネルギーを使うことです。
つまり主体性を発揮するということです。

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