昨日のNHK「クローズアップ現代+」で、神戸製鋼と日産自動車の不正が取り上げられていました。
内部証言で迫る”不正の深層”~神戸製鋼・日産で何が~ – NHK クローズアップ現代+
この問題、不正の規模の大きさだけでなく、日本の工業製品の品質の高さに対する信頼を失いかねない事態として非常に大きな問題となっています。
番組では不正が起きた要因の1つとして不正に対する問題意識の希薄さ、つまり罪悪感の欠如が挙げられていましたが、この罪悪感という概念、しばしば本来の意味とは異なった使われ方をしているようです。
そこで今回は、これまでにも何度か援用したことのある『パーソナリティ障害の診断と治療』の記述を元に、本来の意味と概ね同じと考えられる精神分析における罪悪感と恥の分類を紹介します。
他人からの批判を恐れる感覚は罪悪感ではなく「恥」
まず『パーソナリティ障害の診断と治療』の該当箇所を引用します。
罪悪感は、自分は罪深いとか悪行を行ってしまったとかという確信であり、心の中の批判的な親あるいは超自我といった観点から容易に概念化できる。
これに対して恥は、自分が悪いと思われているとか間違っていると思われているという感覚であって、この場合観客は自分の外側にいる(同書 P.202)。
ここで重要なのは、罪悪感と恥との違いを、感じていることの内容ではなく、それに対する否定的な言動がどこから生じているのかで区別していることです。
つまり悪いことをしたと感じるのが罪悪感で、恥ずかしさを感じるのが恥「ではない」ということです。
またこの区分に従えば、他人からの批判や非難を恐れる感覚は罪悪感ではなく「恥」ということになり、また他人からの評価に関係なく生じる「自分で自分が恥ずかしい、情けない」という感覚は恥ではなく「罪悪感」ということになります。
しかし悪いことをしたと他人か思われるのは「恥」、自分で自分を恥じるのは「罪悪感」と言われても腑に落ちない方も多いと思います。
その理由は、このような区別の仕方が十分機能していた時代と比べて、現代人の心が大きく変化してしまったためと考えられます。
次回はその要因について自己愛講座として記述する予定です。
補足)前述の他人の視線に関係なく生じるタイプの「自分に対する恥ずかしさ」という感覚は厳密には誤りです。
この点も次回に記述する予定です。
予定を変更して、2ページ目に観客が外側に存在しない場合でも恥の感覚が生じるケースがあることを記載いたしました。
引用文献
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