要約:主体性が高い人と乏しい人との主な違いの1つ目として「判断」を取り上げました。主体性が高い人は、自ら考えることに喜びや自尊感情の高まりを感じるのに対して、主体性が乏しい人は同じことをむしろ苦痛と感じ、したがってそれを他者に委ねる傾向があると考えられます。
これまで幾つかの記事で、主体性の有無とその特徴について断片的に触れてきましたが、今回はその内容に絞って記事に致します。
主体性とは
まず主体性とは、自分の意志で物事を考え(判断し)行動する態度と定義することができます。
ですから他人から言われる前に率先して行動することを意味する自主性とは少し意味が異なります。
例えば自分で物事を考えることが苦手な人でも、他人のニーズを敏感に感じとることは得意であれば、率先して(自主的に)相手の役に立つ行動をとることは可能な場合があります。
主体性の有無の違いの表れ
続いて主体性の有無が、具体的にはどのような差となって表われるのかについて記述していきます。
主体的な人は自分で物事を考えることを好み、主体性が乏しい人はそれを苦痛と感じる
主体性の有無が非常はっきりと分かる特徴の1つ目は、定義にもある判断についてです。
まず高い主体性を有する人(主体的な人)は、専門外の様々なことまで自分なりの考え(仮説)を巡らさずにおけません。
なぜなら自分で物事を考えることに喜びを感じるため、そうした態度が自尊感情の源となっているからです。
注)ただし主体的な人がそうした主体性を発揮するのは、往々にして興味があることに対してのみです。
それに対して主体性が乏しい人は、主体的な人が喜びを感じる自分で物事を考えることを、むしろ苦痛に感じます。
このため主体性が乏しい人は、些細なことも含めて物事の判断を極力自分以外の誰かや何かに委ねる傾向があります。
主体性の有無は学力とは直接関連はない
ちなみに主体性の有無は、偏差値で表されるような学力とは直接関連はないようです。
例えば数年前にNHKBSのある番組が、地方の国立大学に出張してそこから中継したことがありました。
そこでは主体性に類するテーマが話し合われていましたが、その場である学生から声が上がり会場で大きな共感を得たのが「考えることは苦痛。何も考えなくて済むのが一番の幸せ」ということでした。
それに対してゲストの一人のパックンことパトリック・ハーランさんが「こんなに楽しいことを苦痛だなんて信じられない」。何も考えない人生のどこが楽しいの」と心底驚いた様子だったのが印象に残っています。
決して偏差値の低くない大学の学生が「考えることは苦痛」と思っているとは意外でしたが、これが実情のようです。
一見主体性が高い人の方が率先して学業に取り組み、その結果高い成績を残してもおかしくなさそうですが、恐らく大多数の学生は受験に関わる学習内容自体に強い興味を抱いているわけではなく、志望校に受かるために必死ではあっても半ば仕方なく勉強しているのが実情なのでしょう。
主体的な学習とは
このことは次の質問について考えてみると、より明白になります。
「もし受験に関係なくても、同じことを自ら学習しただろうか?」
この質問にYesと答えられるのが主体的な態度(主体的に学習に取り組んでいる)ということです。
つまり主体的な学習とは、ある分野に強い関心を抱き、それについて勉強したくて仕方がないような態度を指し、したがって受験のために率先して勉強する態度自体は、自主的ではあっても主体的とは限らないことになります。
なぜそこまで熱心になれるのかといえば、すでに述べたようにそこに喜びや自尊感情の高まりがあるためです。
次のページでは今回の判断の好き好きの裏返しとして、自由について考察します。
ただし哲学的に考察されているような意味ではなく、一般的に使われている意味での自由についてです。