主体性が高い人と乏しい人との主な違いの2つ目は自由に関することです。
なお、ここでの自由とは一般的な意味で用いられている意味合いを指します。
例えば他者から強制されるのではなく、自分の意思が最大限尊重されるような状態で、典型的には「好きな事をして良い」と言われるような場面です。
主体性が高い人は、興味を持っていることに関しては最大限の自由裁量を求めがち
主体性が高い人は一般的に好奇心が旺盛で、その関心事に対して自分の価値観に基づき創意工夫しながら取り組む事を好みます。
このため、その自分の関心事に対して他人から指図されるような事を嫌う傾向があります。
これは1ページ目にも書きましたように、主体性が高い人は関心があることに関して自ら思考を巡らすことが自尊感情の主要な源泉となっており、したがってその自由を奪われることは同時に自尊感情を満たす機会をも奪われる事を意味するためです。
ですから主体性が高い人は、少なくても関心が高い事柄に対しては、最大限の自由裁量を求める傾向があります。
主体性が乏しい人は、娯楽以外の行為の自由を与えられると困り果ててしまう
一方、主体性が乏しい人は、今回の意味合いの「自由」に関して、主体性が高い人とは対照的な反応を示します。
こちらも1ページ目に書きましたように、主体性が乏しい人は自分で考えて行動する事が苦手で、それを代わりに引き受けてくれる存在を求める傾向があるため、例えば自習時間や業務の空き時間などが不意に訪れると、何をして良いのか分からず途方に暮れることになります。
なぜならそれらのシチュエーションでは、自分で課題や作業などを見つけることが期待され、したがって私的な目的のために時間を使うことは許されないケースが多いためです。
しかしひとたび指示が与えられると、前述の主体性が高い人が有するようなエゴが希薄なため、主体性が高い人と比べて遥かに楽にその指示に従うことができます。
むしろそうした指示は、何をして良いのか分からず途方に暮れる状態から救い出してくれる作用を有してもいるため、安堵感をもたらすことさえあります。
ですから主体性が乏しい人にとって他人からの指示は、それが苦痛を感じるようなものでない限りは、自分にやるべきことを与えてくれるものとして、むしろ求められているという側面もあります。
その非常に極端な例として以前に書いたのが「体罰には需要がある」旨の記事です。
この記事では体罰というものを、それを行いたい指導者が嫌がる生徒に対して一方的に行使するケースとは別に、むしろモチベーションを高めてくれる欠かせない存在として、生徒の側から求められている側面もあることを指摘しました。
こうしたケースでは、著しく苦痛を感じるような他者からの介入でさえもが、むしろ有り難い行為とみなされています。
この体罰のケースからも、主体性が乏しい人が、いかに自分を無理矢理にでも突き動かしてくれる存在を切望しているのかがお分かりいただけると思います。
次のページでは対人依存を含めた依存と理想化を軸に、主体性の有無について考察します。
なお2つの項目を同時に扱うのは、依存には必然的に理想化の心理が存在するためです。
言葉を変えれば、誰かや何かを過剰に理想視しているからこそ、それに対する依存欲求が生じると言えます。