体性が高い人と乏しい人との主な違い。5ページ目では前ページの承認欲求に引き続き、人間関係の特徴を探っていきます。
主体性が高い人と乏しい人との主な違い〜これまでのまとめ
これまで比較検討して来ましたように、主体性が高い人は自分の意志で物事を考え行動することを好み、またそうした行為に喜びを感じるため、日々の生活や人生に充実感を感じやすい傾向があります。
またそれに加えて、日々充実した生活を送る自分に対する評価(自己評価)も高くなりがちなため、自尊心も満たされやすい状態にあります。
一方、主体性が乏しい人は、同じ行為をむしろ苦痛に感じることから、極力そうした状況を回避しがちです。
しかしそうして自ら考え行動することを回避し続ける人生は、娯楽によって一次的に気分を好転させることはできても、そうした行為からは自分の存在価値を感じることはできないため無価値観に苦しむことが少なくありません。
そしてこの新たに生じる苦しみに対処するための典型的に用いる方策が他者から価値を認めてもらうこと、つまり承認欲求の充足です。
以上のように主体性が高い人と乏しい人とでは、前者が自分の力でメンタルのケアができる部分があるの対して、後者はそのケアをもっぱら他者に頼らざるを得ないという違いがあり、この差が人間関係をはじめとした社会との関わりに対しても大きな違いを生み出します。
今回から何ページかに分けて、主体性が高い人と乏しい人とでは他人や社会への印象が大きく異なり、その差が関わり方にも非常に大きな違いを生み出すことを述べていきます。
まずこのページでは被害者意識あるいは他罰傾向の強さについて検討します。
被害者意識および他罰傾向とは
コトバンクによれば、被害者意識とは次のように定義されています。
必ずしも被害を受ける立場にあるわけではないのに、自分は被害を受けている、受けるに違いないと思い込むこと。 また、自分の誤った行為を正当化するために、責任を他者や生育環境などに転嫁し、自分こそ被害者だと思い込むこと。
またこの定義の中で「また」以降の部分が、何か問題が生じた時に自分以外の誰かや何かに責任の所在を求める他罰傾向に該当するとも言えます。
主体性が高い人は被害者意識や他罰傾向が総じて低い
この被害者意識あるいは他罰傾向は、主体性が高い人の場合それほど強くありません。
なぜなら1ページ目にも書きましたように、主体性が高い人は少なくても関心があることに対しては自分で考え、その判断を元に行動することを好むため、仮にその結果が好ましくないものとなってしまったとしても、それは自分の判断の結果であることを理解しているためです。
但し自己の利益のために対外的に嘘をつく可能性はゼロではないでしょうが、その場合でも自分の判断の結果であること自体は認識しているはずです。
もっとも自尊心が高い人は総じてストレス耐性も高い傾向があるようですので、このような可能性は非常に低いと考えられます。
主体性が乏しい人は被害者意識や他罰傾向が強くならざるを得ない
一方の主体性が乏しい人は、3ページ目にも書きましたように、日頃から物事の判断を他者に委ねる他力本願的な生き方をしていますが、このような生き方は「自分はいつもそれらの判断に従っているだけ」との考えを生じさせます。
このため何か問題が生じた場合その責任は必然的にそれを判断した側、つまり自分以外の誰かや何かに求められることになります。
と同時に、その誤った判断のせいで自分は被害を被ったという被害者意識も生じることになります。
このように主体性が乏しい人の被害者意識や他罰傾向は、多くの場合誤魔化しではなく本当にそのように感じられる点に特徴があります。
そしてこのような考えに至ってしまうのも、自分が行為の主体であるという感覚が乏しいためです。
私説:統合失調症は主体性が極度に損なわれた病態
なお、この他力本願的な生き方から生まれる被害者意識が酷くなると、いわゆる被害妄想の状態へと近づいてゆき、また場合によっては「自分は(電波などによって)操られている」という妄想を生じさせかねません。
統合失調症の病態への理解は一様ではなく、特に精神医学と臨床心理学とでは非常に大きな差があるようですが、統合失調症を患っている方の多くが操られているという感覚を経験されることから察しますに、私自身はこの病態は主体性が極度に損なわれた状態からもたらされるものと考えています。
またそれと同時に、操られ体験などのような統合失調症の方に生じる様々な妄想は、その方の心の内を理解するための貴重なリソースであるとも考えています。
次のページでは、主体性が乏しい人が陥りがちな気疲れの要因を中心に、主体性の有無が人間関係に与える影響を引き続き探っていきます。