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他人を操作して止まない、それでも誠実で優しいと思われる人~自己愛講座14

カフェでお茶していると隣の席から興味深い話が聞こえて来ました。
性的な願望をカモフラージュして優しさを醸し出す男性という良くある話ですが、私自身も若い頃は性的なことに限らず、いかにそれと悟られずに相手を思い通りに操作するか策を練り続けているような人間でしたので耳が痛いです。
しかしそれでも当時の私の典型的な他者評価は「誠実」「優しい」というものでした。自分の利益のために他人を操作することばかり考えている人間がです。
今回はそうしたことが起こり得る理由について書かせていただきます。

ちなみに今回は自己愛性パーソナリティ障害の診断がつくような尊大さが際立つ人ではなく、それとはむしろ真逆のナイーブで大人しそうな印象を与え、しばしば回避性パーソナリティと勘違いされるような抑うつ型の自己愛の人の話です。
ただし厳密には、自己愛的な人は(矛盾するようですが)実際はこの両方の側面を兼ね備えています。

自己愛的な人にとって欲求を口にすることは恥ずべきこと

たびたび引用する「パーソナリティ障害の診断と治療」によれば、自己愛的な性格傾向を有する人は自分の望みを口に出すことを、他の性格タイプ以上に恥ずかしいと感じる傾向があります。
これは同書によれば望みを口に出すことのみならず、望みを持っていること自体が自分の不完全さの証して恥ずべきことと感じられるためと解釈されています。
そしてその結果、激しい欲求不満状態に陥るわけですが、その状態への対処の仕方は病態水準(心の健康度)によって異なって来ます。

具体的には比較的健康な神経症水準では、そのストレスフルな状態に苦しくても耐え続けることになります。
そんなに苦しいのなら思い切って言ってしまえば良いのにと思われるかもしれませんが、それができないという点に自己愛的な人の羞恥心がどれほど強いものなのかを実感していただければと思います。

一方それより重症域のパーソナリティ障害水準では神経症水準のようなストレス耐性を有しないため欲求不満状態に耐えられず、しかし望みを口にすることも困難なため、何となくそれを醸し出すことで他人がそれを察して願いを叶えてくれることを期待するようになります。
ですから冒頭で述べた私のような(あからさまではない)他者操作を繰り返す人は、この水準に位置する自己愛的な人と推測されます。

パーソナリティ障害水準にある自己愛的な人の他者操作はあくまで手段

このようにパーソナリティ障害水準にある自己愛的な人は、望みを伝えることなくそれを察して叶えてくれるように働きかけるという形で他人を操作するわけですが、既述のようにそれは恥かしくて言えないがための苦肉の策です。
つまりパーソナリティ障害水準にある自己愛的な人の他者操作はそれ自体が目的なのではなく、あくまで手段に過ぎないということです。

表面的な自己犠牲的態度が「誠実」「優しい」という印象を与える

次に冒頭で私を例に挙げた、他者操作ばかりしているはずの人間が「誠実」「優しい」という印象を与える理由に話を移します。

この理由の一つは「自己愛的な人にとって欲求を口にすることは恥ずべきこと」のところで述べましたように、自分が不完全な人間であること自体を相当恥かしいことと感じるため、そのことを何としてでも隠す必要があることから、自分は誰の助けも必要としない完璧な人間であるとの印象を与えねばならず、しかしその一方で望みを口に出せないことで生じる欲求不満状態も何とかしなければならないため、この2つの課題を同時に解決するために出来るだけそれと悟られずに他者操作が試みられることで、他人からはその意図が分かりづらくなってしまう点です。
しかしそれも注意深い人にはバレバレのようですので、冒頭の隣の席の人も彼の動機を疑っていました。

二つ目の理由は、これはあまり知られていませんが自己愛的な人は他者操作的であると同時に、反対の立場にも半ば積極的に身を置く点です。
これは精神分析的な発達論では、親から操作され続けることで「人間関係とはどちらか一方が相手を操作するものである」という雛形を学ぶからだと考えられています。
この自己愛的な人の傾向から当時の私も時に自ら積極的に自分の不利益を顧みず人の役に立つことに腐心していましたので、この献身的なまでの行動パターンが「誠実」「優しい」という印象に繋がったのではないかと思われます。
ただ実態はその印象とかけ離れたもので、当時の私も内心では(羞恥心の強さからあくまで内心です)必ずと言って良いほどその見返りを期待し、それが叶わなければ内心憤慨していました。

また表面的だとしても自己犠牲を厭わない別の要因として同じく精神分析的な発達論では、親から繰り返し「何でも言うことを聞く良い子である限りは、お前を愛してあげる」旨のメッセージを受け取ることが指摘されています。
何でも言うことを聞くとは親の思いどおりになる、つまり操作されることを受け入れることに他なりません。

純真無垢な印象がやはり「誠実」「優しい」という評価に結びつく

三つ目の理由は二つ目の行動パターンの動機ともなっていることですが、自己愛的な人は人一倍「良い人間になりたい」と願っていることです。
他人を自分の利益のために巧妙に操作して何を身勝手なことを思われるかもしれませんが、たとえ独りよがりであったとしても例えば当時の私は「世界を救う人間」になることを日々夢見ていました。

この矛盾を解決するために自己愛的な人が用いる常套手段が「否認」と呼ばれる防衛機制です。
否認は様々な動機で用いられますが、自己愛的な人の場合それは大抵「都合の悪いことの隠ぺい」です。
もっともここでの隠蔽とは他人に対してではなく自分自身に対して、つまり好ましくない自分の属性を意識の外に閉め出し、そうして残された心地良い属性だけで良い人になれたと思い込み満足感を得るというものです。

一般的に人には悪意ある行為は容赦しなくても無自覚な行為に対してはケアレスミスとして大目に見てくれる傾向があります。
この傾向から否認の防衛機制を多用し、他人に害を与えるようなことを無自覚に行うことがしばしばある自己愛的な人は、たとえ同じことをしても「悪意はないのだから」と大目に見られてイメージダウンに繋がりにくいのではないかと思われます。

悪意とは無縁の純粋無垢で汚れのない世界に生きている心清らかな人、それが知人レベルの付き合いの人の抑うつ型の自己愛的な人に対する典型的な印象です。
ここで知人レベルと断っているのは、親しい間柄なると、たとえそれが無自覚で悪気がないとしても執拗に繰り返されれば我慢の限界を超え、やがて「性格に問題がある」という評価などに変化していくためです。
このため自己愛的な人は付き合いのレベルによって評価が一変する傾向も有しています。

あまりの弱々しさが悪意とは無縁の印象を助長する

最後の理由は弱々しい印象です。自己愛的な人は他人からの非難に非常に弱いという傾向があります。
この傾向から少しの非難にも簡単に打ちのめされてしまい、そのあまりの弱々しさが悪意とは無縁の印象を助長します。
またその打ちのめされた姿を見てうっかり非難してしまった人は、たとえそれが相手からの非難への応酬であったとしても、とんでもないことをしてしまったことへの罪の意識を感じ、その罪滅ぼしのためにそれ以降「良い人」と思い込みがちなバイアスが働くことにもなります。

以上、その行動は他者操作に他ならないにもかかわらず、それが一見分かりづらいこと、および本人さえその自覚がないことが多いことから「悪気がないこと」として大目に見てもらえる、さらに否認の防衛機制によってもたらさせる純真無垢な印象が「誠実」「優しい」という一見相いれない評価に結びつく理由を考察しました。

追伸)今回、自己愛的な人が誠実で優しい人と評価される理由として述べた4つの要因は、それぞれが一つの記事と成り得るほどのものをかなり端折っています。
ですのでそれぞれについては別の機会にまた改めて詳述する予定です。

参考文献

ナンシー・マックウィリアムズ著「パーソナリティ障害の診断と治療」創元社、2005年

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